2021年3月1日、東北視察最終日。この日は、宮城県を南下し、まずは旧大川小学校へ向かいました。

この記事を書いた人
防災士 小松正幸
(相日防災株式会社 課長)
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2013年6月防災士資格取得。あんしんの殿堂防災館本店の店長として、防災業界に精通する、防災のスペシャリスト。主に企業備蓄・自治会備蓄のサポートに日々尽力している。熊本地震(2016年4月)、北海道胆振沖地震(2018年9月)の際には、いち早く被災地に駆けつけ、被災地支援と現場視察を行った。

石巻市立大川小学校

外からの建物外観。10年たった今も、ひと目で惨状が見て取れる。

ここは本震発生後およそ50分経った15時36分頃、8.6m(校舎2階の天井高さ)の津波が襲い、校庭にいた児童78名中74名と、教職員13名中、校内にいた11名のうち10名が亡くなりました。他にも、学校に避難してきた地域住民や保護者のほか、スクールバスの運転手も亡くなっています。

東日本大震災の話の中で、必ずと言っていいほど耳にする大惨事となった現場です。

以前賑わっていたであろう町の面影は一切なく、一面の更地。小学校は工事中で、校舎以外はすべて撤去し慰霊碑が建てられるとのこと。

津波到達までの50分間に何があったのか?

安心安全であるべき教育現場で当時何が起きていたのか。14:46の揺れがおさまって、15:00前には生徒、皆、校庭に避難していました。

そこから津波が来るまで約50分間ありました。その間、何があったのか、最善策は何だったのか。私も子供がいる親として、しっかりと考えてみたいと思います。

<当時の学校の状況>

  • 全校生徒108名で、当日欠席、早退、保護者引き取りがあり、校庭には78名の生徒がいました。(引き取られた児童は全員助かっています)
  • 一次避難場所が校庭、二次避難場所が不明瞭だった。
    裏山に逃げた子もいましたが校庭に呼び戻されています。
  • 学校は第一級河川である北上川から200mの場所にあります。
    しかし海岸から約4kmの地点の為、津波浸水想定区域に入っていませんでした。
  • 最高責任者である校長が不在。
    勤務年数の短い教職員が多く、地域の状況を理解している方が少なかったそうです。
  • 避難住民、保護者との対応に追われていたという情報もあります。
    発災直後に大津波警報が出ており、保護者や地域住民も山への避難を進言。15時前後には津波がここまでくるかもしれないという情報は入っていました。

<避難開始まで>

本震から約50分後。河川の上流である三角地帯に避難が決まり、津波到着1分前に避難開始。これだけの地震の後ですから、当然、現場は混乱していたと思います。ただ、避難開始まで焚火の準備をする教員もいたという情報があります。

つまり子供を引き取りに来た保護者や、避難してきた方々の対応に追われ、現場の手が足りなかった、子供たちを誘導する教員がいなかったわけではないということになります。

<津波到達>

校庭から移動を開始したのは、河川からすでに水があふれていた時でした。裏道を通り民家の軒先を通って県道に出た直後、堤防を乗り越えた巨大な津波が児童の列を飲み込みました。

子どもたちは教員誘導のもと黄色の点線を通って、校庭からCの三角地帯へ避難しようとしましたが、津波が川側から迫ってきたので山側に引き返し、x印で津波に襲われています。

<大川小学校の震災前と津波到達後>

大川小学校の惨事を考える

この大川小学校の件は、遺族と宮城県及び石巻市が裁判で争い、学校側の過失が認定されています。

ただ、何故、裏山への避難が選ばれなかったか。川に向かって移動したのは何故か。移動決定まで30分以上かかったのは何故か。

疑問はつきません。

原因は色々と考えられていますが、当事者がほとんど亡くなってしまい、生き延びた方たちの意見の食い違いもあり、断定することは出来ません。
私なりに、当時の状況を調べていく上で、気になった点をまとめていきたいと思います。

注目点を整理する

<注目点1>

  • マニュアル上、一次避難場所は校庭。二次避難場所は「近くの公園または広場」となっており、具体的に指定されていませんでした。
  • その為、移動先候補として裏山が上がったが、議論の結果、選ばれなかったといいます。
校庭から見た裏山
裏山の入り口付近。傾斜は9度。
裏山は児童がシイタケ栽培の体験学習を行っていた場所でもありました
校舎と裏山はそれほど距離が離れていません。
裏山には土留めをしたコンクリートテラスのような平らな場所もありました。
津波到達点を表す白い看板。その少し上の平たい部分がコンクリートテラスです。
コンクリートテラスから見た校舎

<注目2>

15時25分に市広報車が高台避難を呼びかけ、通過していますが、校庭から移動開始したのはさらにその約10分後。校庭から移動開始したのが津波到達の約1分前でした。

これについては、「ここまで津波が来るはずが無い」「学校だから安全に違いない」という正常性バイアスが働いたと考えれられます。

校長という最高責任者が不在の中で、山が安全である保障もない。高齢者や児童を連れて、万が一の時、その責任が取れるかどうかが判断を遅らせた。等の原因が考えられます。

<注目点3>

・津波が来るということで移動することになったはずなのに、川に向かって移動開始。児童たちが辿り着くことが出来なかった三角地帯も標高不足で津波に吞み込まれています。

・二次避難場所が明記されていなかったことにより、校庭より6m高いという理由で三角地帯が移動先に選ばれました。10m近くの津波ですので、移動開始が早くても結果は変わらなかったのではないかと言われています。

何故、救えなかっのたか。どうすれば救えたか。命をつなぐために事実を知り、考える。

こうすれば。ああすれば。それを言うのは、最初はとても無責任な気がして、とても苦しかったです。結果を知ってるのだから、非難することは簡単。子供たちを守ろうと先生たちも間違いなく必死だったはず。

ただ、大きな地震の後、家族がいない、先生しか頼ることが出来ない中、不安になりながらも一生懸命先生について行き、避難場所を目指していた子供たちを思い浮かべると、胸が締め付けられ涙が出ます。

裏山には避難可能でした。しかし、さまざまな理由で選ばれませんでした。ここにはいろいろな証言があり、真実はわかりません。

これだけの命が失われたんです。誰もが想像できないような事態だから仕方がない、なんてことはありません。裏山に逃げれば恐らく助かった。「救える命があった」ことは事実。

私たちに出来ることは、その事実から目を背けず、「何故それが出来なかったのか。」「どうすれば同じようなことが起きた時、きちんと行動出来るのか」を考えること。そして、それ伝えて、つなげていくことだと思います。

<教訓>

  • ハザードマップの確認、マニュアルの見直しを定期的に行い、最新の情報を手にすることで、「想定外を少しでも減らすよう日々努力する
  • 津波対策は垂直避難が基本。学校だから、ここなら安全、もう大丈夫。という考えは危うい。二次避難場所を具体的に決めておくと共に、より安全な場所への再移動も考える、すぐに動ける準備をする必要がある。
  • 意思決定がすぐに出来るよう、避難経路及び地形確認は日頃からやっておく必要がある。地震が起きてから議論するようでは間に合わない。意思決定は誰がするのか。その者が不在の場合は誰が行うか。決めておく必要がある。
  • 学校、施設等は、保護者との連携、引き渡し方法など日頃から協議する。

自分の身は自分で守る、それが出来ない命もあります。その命を守るために、幼稚園、学校などは、より実践的な防災訓練を行う必要があると思います。

東日本大震災から10年 3.11を忘れない<小松店長の東北視察5>に続く ↓