あれから10年が経過しようとしています。改めて、東日本大震災とはどのような地震であったのか、そして10年経過した今どのように変わったのかをお伝えすべく、私たちは2/27~3/1の3日間現地視察をして参りました。
※視察の際は新型コロナウイルス感染症の対策を万全に取り行いました。(マスク着用・手指消毒の徹底、ソーシャルディスタンスを保っての取材)

この記事を書いた人
防災士 小松正幸
(相日防災株式会社 課長)
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2013年6月防災士資格取得。あんしんの殿堂防災館本店の店長として、防災業界に精通する、防災のスペシャリスト。主に企業備蓄・自治会備蓄のサポートに日々尽力している。熊本地震(2016年4月)、北海道胆振沖地震(2018年9月)の際には、いち早く被災地に駆けつけ、被災地支援と現場視察を行った。

まずは東日本大震災の概要について

東日本大震災は、2011年(平成23年)3月11日(金曜日)14時46分に宮城県牡鹿半島の東南東沖130キロで発生しました。 最大震度7、マグニチュード9.0

この地震により、場所によっては波高10m(最大遡上高40m)以上にも上る巨大な津波が発生し、東北地方の沿岸部に壊滅的な被害が発生しました。

2020年12月10日時点で、死者は1万5899人、重軽傷者は6157人、警察に届出があった行方不明者は2527人(10年経って、ようやく身元が判明する場合もあり、この数字は今も変動しています。)。

阪神淡路大震災は、亡くなった方の約85%が建物倒壊による窒息死、または圧死であり、地震で揺れたその瞬間に、運命はほぼ決まってしまいました。それに対し、東日本大震災は、90%の方が津波によって亡くなっております。本震から、津波到着までは、場所によって異なりますが約20分から50分。その短時間で、高台に避難できたかどうかが生死を分けるポイントとなってしまいました。

20分という時間は高齢の方からすると、なかなか厳しい時間帯ではあり、亡くなった方の約64%が60歳以上というのも頷けます。

生き残った方でも、すぐに逃げなかった人が実に4割という数字。

それだけ想定外な場所まで津波の被害が及んだということが分かります。理由があって逃げられなかった人、また、逃げられるのにすぐに逃げなかった人

でも、その理由は様々。いろいろな条件が絡み合っており「何故、逃げない?」って後出しで私たちが思うほど、現場は単純な状況ではありませんでした。

あの日、いったい何が起こっていたのか。そして、それを教訓として、今どのような取り組みがなされているか、復興に向けて現在の状況はどうか。

実際に現地を見て、現地の方々にお聞きしたお話をお伝えしていきたいと思います。

少しでも多くの事実を伝え、読者の皆様の、いざという時、生き延びる、命を守るヒントになればと思います。一度にまとめてご案内が出来ないため、少しづつ更新していきたいと思います。

最初の目的地:高田松原津波復興祈念公園

公園内にある一本松と、ユースホステル(左)。その奥には震災後に出来た水門が見える(右)

私たちが東北に着いて最初に向かった先は、岩手県陸前高田市気仙町にある高田松原津波復興祈念公園の奇跡の一本松。

ここには震災前、約7万本の松の木が植林されており、日本百景にも指定されていた景勝地でしたが、津波の直撃を受け、壊滅。西端に立っていた一本の木だけが残り「奇跡の一本松」として、震災からの復興への希望を象徴するものとして捉えられるようになりました。

もともと、松は塩に強く、防潮林としての役割を果たしておりました。一本松と海との間に、写真にも写っているユースホステルがあり、津波の直撃が無かった為に生き残ったとされています。

現地は12m防潮堤に囲まれています。

TSUNAMIメモリアルから見た防潮堤
防潮堤から見たTSUNAMIメモリアル

公園で出会った女性のお話

公園内を移動中、50代くらいの女性に話を聞くことができました。その内容は下記のようなものでした。

  • ・気仙中学校は現在3km以上離れた場所に移った。この辺りには中学校は7校あったが2校になってしまった。
  • ・昔は、この辺りには鳥がたくさんいたが、震災後は来なくなってしまった。
  • ・公園の南側には工事中の気仙中学校がある。震災遺構として残そうと公示しているが、正直、取り壊してほしい。痛々しいし、当時を思い出して辛い。
  • ・沢山の人が亡くなり、そして職を失った。街を出ていった人の多くは戻ってきていない。
  • ・私たち地元民は3月11日が近づくと、皆、何となく、そわそわして落ち着かない。ドキドキして苦しくなることがある。毎年、この日が早く終わってほしいと思ってしまう。
  • ・津波は逃げるしかない。きれいな公園、防潮堤があっても、意味があるのだろうかと思ってしまう

元気な方で、一生懸命、思いを我々に伝えようとしてくれましたが、話し終わった後はどこか寂しそうな目をされていました。家族は無事でしたが、大切な友人、知り合いを亡くされたそうです。

穏やかで綺麗な場所になってきていますが、ただただ、虚しく広い公園の中。

現地の人の傷はまだ癒えていないのだと感じました。

震災遺構 旧気仙中学校

震災遺構として残る気仙中学校

気仙中学校は高田松原津波復興祈念公園の南側にあります。鉄筋コンクリート3階建で形は残っていますが、中は完全に破壊されています。

屋上には津波到達点として14.2mの看板がある。

幸いにも生徒は高台に避難し全員無事でした。屋上を超える高さの津波。万が一、時間が無く屋上に避難するしかなかったら・・そう思うとゾッとします。

生徒は高台に避難した後、先生の指導でさらなる高台に避難したといいます。慎重に慎重を重ねたこと、避難する場所を複数把握していたこと、大勢の人を自信を持って正しい行動へ導く。日頃から、準備をしていないと出来ないことです。

各組織の防災担当は、想像力を働かせ最悪の事態を想定し、準備をする。また、その行動を訓練で皆が繰り返し、次の一手を用意することも重要だと思いました。

民宿むさし 取材

1日目の夜は高田松原津波復興祈念公園から車で15分ほどの高台にある、民宿むさしさんに宿泊させていただきました。 海が見える場所で、すぐ近くまで津波が来たものの、こちらの建物の被害はなかったとのことです。美味しい食事を頂いた後、ご夫婦にお話を伺うことが出来ました。

本当は思い出すのは辛いはずなのに、いろいろお話頂き有難うございました

武蔵夫妻へのインタビュー

地震直後の様子はどのような状況でしたか?

木の柱が折れるような、ブルトーザーで家を壊すような音があちこちで聞こえ、津波だと分かりました。山なので、津波が来るとは思っていなかったし、砂煙と家でよく分からない、停電でテレビがつかないので情報も無く不安でした。

発災後はどのような生活でしたか?

しばらくして親族関係がこの民宿に避難して、約20人が8月ぐらいまで一緒に暮らすことになりました。身一つで避難してきた為、所持品がタバコと釣銭だけという人もいたし、ずぶ濡れで、そのまま数日間寝込んでしまった人もいました。

電気が無く、真っ暗闇。ろうそく数本で皆で生活していた。灯りがあるのは本当に安心します。

20人もの食事はどうされたのでしょうか?

幸いにも民宿ということもあり、1週間分くらいの米や野菜といった食料がありました。近くの公民館でも、地域の人で食材や調理器具を持ち寄り、炊き出しを行いました。プロパンガスだから出来ましたが、都市ガスだと出来なかったのではないでしょうか。その後は支援物資が届くと、声をかけてもらっていました。支援物資は非常に有難かったです。ただ靴や衣服の支給の際に気づいたのですが、大柄の人は、サイズが合うものが、なかなか手に入りませんでした。3L、4Lサイズとかも必要だと思いました。

復旧まではどれくらいかかりましたか?

電気・水道復旧までは場所にもよりますが、2、3カ月かかったのではないでしょうか。最初は暗闇で、景色も変わってしまった為、迷子になることがありました。夜間の移動は瓦礫、釘やガラスも見えず、非常に危険だった気がします。

当時の生活の中で役に立ったものはなんでしょうか?

・手巻きの充電ラジオ:テレビも無いので唯一の情報源でした。

・非常用の電源:ソーラー充電があって本当に助かりました。

・十得ナイフ:缶詰がプルトップではないものが多く、それらを開けるのに役立ちました。

・ストーブ:まだまだ寒い時期。電気が使えないので、石油ストーブが役立ちました。火をおこすにもチャッカマンも必要だなと思いました。

・防寒具。アルミシートや、大きなゴミ袋に穴を開けて首を通して防寒着にする人もいました。

街中の状況はどのような状況でしたか?

・とにかくひどい匂い。鼻の中は真っ黒になるし、夏場は見たこともないサイズのハエがたくさん飛んでいました。

・あちこちにご遺体があり、しばらくの間そのまま。目印として旗が立てられていました。

・皆、何かを必死に探し回っている状況。泣いている暇はありませんでした。

しばらくすると、「見つかった?」「まだ・・」、「大丈夫?」「うちだけでねぇから・・」このやり取りが、合言葉のようになりました。

・次第に高齢者の様子がおかしくなっていったような気がします。赤十字団体、ボランティアの方が対応してくれるようになり、少し良くなったと思いますが、気が緩んだからなのか、生活が落ち着いたころ痴呆症になった人もいらっしゃいました。

・津波に巻き込まれて、助かった人たち。その時のことを話さない、話せない人も多かったです。地震後、建物内で逃げ遅れ、完全に浸水して閉じ込められたが、たまたま空気が溜まった場所に顔を出して助かった子がいました。若い女の子で、手が傷だらけでした。何があったのかを聞いてもなかなか答えてくれませんでしたが、1年程経ってからようやく話してくれました。一緒にいた人達が必死に生き延びようとして、しがみついて出来た傷だったそうです。

武蔵夫妻のお話を聞いて

日頃の近所の付き合いが重要だと思った。地域のコミュニティ活動に積極的に参加し、コミュニケーションをとらなければと思いました。

ソーラー充電タイプの電源は、天候に左右されると思ていましたが、これだけ長期間、停電となると、十分役に立つということ。複数の選択肢があった方が良いので、一つは準備しなくてはならないと気づきました。

灯り、情報が無いと、人間は不安になります。地震・停電をワンセットで考えると、ラジオライトはやっぱり必需品だし、避難口など、分かりやすいところに設置する必要があります。

迷子になった話が出ましたが、地震が夜起きた場合、変わり果てた風景と真っ暗闇のせいで、安全な場所に避難するのは容易ではないように思います。家族との安否確認方法、集合場所をしっかり決めておくこと、安全な場所に留まる為に、日ごろから必ずやっておかなければならないと思いました。

民宿むさし周辺の防潮堤

翌朝、むさし周辺の防潮堤を確認に行きました。海岸線はずっとこのような壁が続いています。高さはその場所で違うようです

民宿むさしの2階から見える海の様子
暫く歩くと防潮堤が見えてきました

近くで見ると、凄まじい高さ!ここは高台ということもあり、10m程度でしょうか。

むさしのご夫妻には本当にお世話になりました。3.11の話をすると、知らないうちに涙が出てくるとおっしゃっていました。その中で、私たちの質問に丁寧に答えていただき、感謝しかありません。

奥様はいまだに地震が来ると震災のことを思い出して、ドキドキして落ち着かなくなってしまうそうで、先日の2月13日の地震でも、宿泊していた親子に「落ち着いて。大丈夫だから」と呼びかけ、実は自分が一番慌てているのに気づいたそうです。

私も地元や家で地震があると、職業柄、大きな声を上げてしまう時があるのですが、皆、ぽかーんとしてることもしばしば。

経験したことが無い、知らないからピンとこないのかもしれませんが、素早く身の安全を確保する動作をするのは当たり前のこと。皆さんも、そこは、格好が悪いとか思わずに。背の高い家具から離れたり、頭を低くして守ったり、テーブルの下に入ったり。子供のころ、防災訓練で学んだことを、忠実にやっていただきたいと思います。

本当に落ち着く、温かい雰囲気のお宿
本当に貴重な時間を有難うございました。

東日本大震災から10年 3.11を忘れない<小松店長の東北視察2>に続く↓