東北視察2日目、宮城県の南三陸町へ。本記事では、南三陸町さんさん商店街~旧防災対策庁舎~祈りの丘~志津川高校~戸倉公民館の様子をレポートします。

この記事を書いた人
防災士 小松正幸
(相日防災株式会社 課長)
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2013年6月防災士資格取得。あんしんの殿堂防災館本店の店長として、防災業界に精通する、防災のスペシャリスト。主に企業備蓄・自治会備蓄のサポートに日々尽力している。熊本地震(2016年4月)、北海道胆振沖地震(2018年9月)の際には、いち早く被災地に駆けつけ、被災地支援と現場視察を行った。

さんさん商店街 ~ サンサンと輝く太陽のように ~

2012年にオープンした商店街。実は、私たち、5年前にも視察に来たことがあり当時を思い出しながら歩いてみることにしました。

5年前のさんさん商店街(2015年8月

2015年8月のさんさん商店街
2015年8月のさんさん商店街 モアイ像はチリとの友好の証

震災から4年半が経過した当時はプレハブの店舗も多く、まさに仮設商店街でした。周囲ではブルトーザー、ダンプカーなどが、ひたすら、盛土工事をしていたのを憶えています。写真にあるモアイ像は震災後、チリから贈られたもの(南三陸町とモアイ像の関係は後程お伝えしたいと思います。)

また、当時は防災庁舎から少し離れたところにありましたが、今は、川を挟んで、庁舎真横に移動しております。すっかり整備され綺麗な公園の一角として、たくさんの人が訪れています。

現在(2021年)のさんさん商店街

当時の場所より内陸側へ。現在の場所へは2017年に移設されました。

2021年現在の様子

2021年現在。。今は南三陸杉を使用した、温かみのある建物が並んでいます。

さんさん商店街から、橋を渡って旧防災庁舎へ

現在の河川は綺麗に整備されていました
橋は二重構造で、下も通れるようになっています。

川を渡ると、旧防災庁舎が見えてきます。

現在この一帯は南三陸町震災復興祈念公園となっております。

5年前とは比べ物にならないほど綺麗に整備されており、とても穏やかな風景ですが、人が少ないからか、どこか寂し気な感じがしました。

旧防災対策庁舎

旧防災対策庁舎は南三陸町役場の行政庁舎の1つで、行政第1、第2庁舎に隣接して建っており、この2階に危機管理課がありました。屋上までの高さは12mになりますが、津波は14mを超え、屋上に避難した人達も流され犠牲になりました。

こちらも、5年前に訪れていますので、当時の写真と比較してみます。

5年前の旧防災対策庁舎2015年8月

震災から4年半が経過した2015年の8月

発災当初、津波予想は6m。その為、庁舎に留まり高台への避難が遅れたことが、被害を大きくした一因とされています。

津波で亡くなった職員の遠藤未希さんは2階の危機管理課から津波襲来の15時25分ごろ、最後まで住民に避難を呼びかけ続けました。その数62回。

震災から4年半が経過した2015年の8月 周りは砂利道と盛土のみ

現在(2021年)の旧防災対策庁舎

白い階段の位置からも分かるように、庁舎の裏側が公園になっています
表面には錆止めのペンキが塗られて綺麗になっていました。

5年ぶりに見た庁舎。正直、様子が変わりすぎていて驚きました。中にあった、お供えや、花、御札。ハンガーにかかったボロボロのTシャツなど。生々しいものは、すべて無くなっておりました。

~ 保存か解体か ~

最初はこの庁舎を残すか、解体するかでも議論になりました。

震災遺構として残すことは重要だが、復興が遅れるし、町の負担が大きいということで、一度は解体が決まりましたが、国が支援を表明した為、2031年までは宮城県が管理保存することになっています。

公園の中心部。「祈りの丘」

祈りの丘は、標高20m。犠牲者への祈りを捧げる場です。
旧防災対策庁舎から祈りの丘へ続いています
祈りの丘に登っていく途中の路面。3月11日当日の地震発生から津波襲来までの様子が、時間と共に刻まれています。
祈りの丘頂上から海を臨む。

周辺は綺麗に整備されましたが、昔のように“人が住む場所”には戻りませんでした。

記憶と教訓を風化させることなく、次世代に伝えていくことは非常に大切ですが、前にも進まなくてはいけない。

復興とは、再びもとの盛んな状態に返ること。そこを目指していく上で、これから何が必要か。今あるものを、どのように残すか、本当に難しい問題だと思いました。

志津川高校

南三陸町震災復興祈念公園のすぐそばに、志津川高校があります。ちょうど、卒業式前ということでしたが、敷地内を見させていただきました。

旧高齢者施設側から志津川高校を見上げる。志津川高校へ避難するには、細く険しい階段を登るしかない。

校舎はこの辺りを一望できる高台にあり、震災前は、そこから下ったすぐそばに、高齢者施設がありました。発災直後、逃げ遅れた高齢者たちを生徒が救出に向かい、手を取り合って高校へ避難したそうです。

志津川高校の校庭にあるモアイ像

1960年のチリ地震津波から、共に復興を目指した証として贈られたモアイ像。もともと松原公園にあったのですが、津波で顔と胴体が離れた状態で流されました。あまりに不憫だと生徒の希望もり、現在はこの志津川高校の敷地内に保管されています。

このモアイ像流出を知った イースター島の長老会が新たに贈ったものが現在のさんさん商店街にあるモアイ像です。「マナ(霊力)」が宿るようにと白珊瑚と黒曜石で作られた眼が入っています。

モアイはイースター島のラパヌイ語で「未来に生きる」という意味をもつそうです。

戸倉公民館(旧戸倉中学校)

南三陸町南部の戸倉地区にあった中学校へ。現在は志津川中学校に併合となり、建物は公民館になっています。こちらも5年前にも視察に訪れましたが、すっかり綺麗に整備され、当時の面影はほとんどありません。

時計は当時のまま。

とても穏やかな風景。本当にここまで津波が来たとは思えないような高台にありますが、建物1階天井付近まで浸水したといいます。

やっとの思いでここまで登って避難してきたところに、津波に襲われて流されてしまった人もいたそうです。

5年前の旧戸倉中学校周辺の様子(2015年8月

海沿いの堤防はまだ整備中でした。
当時はまだ仮設住宅があり、生活している人がいらっしゃいました。

現在(2021年)の戸倉公民館(旧戸倉中学校)

現在(2021年)。体育館

津波はこの体育館の2階まで届き、今も窓ガラスが割れた跡が残っています。 現在は備蓄品の倉庫として利用されているそうです。

2021年現在の戸倉公民館から見える防潮堤。非常に緩やかな防潮堤です。

ウォーキング中の地元の50代男性の方にお話を伺うことができました。

周辺には当時、最先端の立派な水門があったが、あっという間に津波に飲み込まれてしまった 。従来の反り返るような防潮堤では津波に破壊されてしまうので時間稼ぎの防潮堤になった。

防潮堤には頼らない。とにかく逃げることが大切

東日本大震災から10年 3.11を忘れない<小松店長の東北視察4>に続く ↓