※2017年04月14日に投稿された記事を再編集したものです
熊本地震本震から5日(前震から1週間)が経過した4月21日の早朝、レンタカーに乗り会社を出発しました。目的地は熊本県益城町総合運動公園。被災された方々約1100名が避難し、現在生活されている場所です。「日頃から防災に携わる者として、何らかの形で被災地支援をしたい」と急遽組まれたプロジェクト。社長を含めた計10名が、3つのチームに分かれ交代制で現地に向かうことになりました。
被災地では動物性タンパク質が不足
食事に動物性タンパク質が不足しているという情報から、とん汁の炊き出しをすることに決まりました。
私を含む3名が第一陣として、約300~500名の食事が一度に作れる大型炊き出し器の『まかないくん』と、とん汁1100名分の食材、さらに甘いものも喜ばれるということで、フルーツ缶詰を持って現地に向かいました。
小田原~大阪~熊本まで。寸断されている道路の確認が必要
まずは会社のある小田原から大阪へ、大阪からフェリーで福岡の新門司港に行き、そこから陸路を南下して熊本へ。
すでに現地入りしている「まかないくん」のメーカー担当から聞いたルートです。
被災地までの道路が寸断されていることを考えると、現地での行動はもちろん、そこに向かうまでのルート情報も細部まで確認が必要だと感じました。
熊本県に到着。被災地に近づくにつれ、景色は一変
熊本県に入った時の印象としては、正直、当初はそれほど違和感がありませんでした。
ただ避難所に近づくにつれ、景色は一変。民家は潰れ、瓦礫の山。とても近づけない状態でした。
塀も崩れて道路脇に広がり、マンホールは隆起し、信号機は傾いていました。
新しい民家も赤紙が貼られていた
もともと古い建物が多い地域と聞いてはおりましたが、比較的新しく見える民家も赤紙が貼られていました。
これは倒壊などによる二次災害を防止するとともに、被災者がそのまま自宅にいてよいか、避難所へ避難したほうがよいかなどを調査して3段階で判定した結果で被災建築物応急危険度判定といいます。(緑色は「調査済み」。黄色は「要注意」。赤色は建物の状態が最もよくない「危険」を表し、この建物には入らないで下さいという意味。)
命を守ることが最優先ではありますが、避難する際、最低限必要なモノを持って出ないと後で取りに戻ることも出来ない。
このようなケースもあるのだと感じました。
避難所に到着。1100人分の夕食作り
ようやく目的地の益城町総合運動公園に到着したのは出発した翌日の昼過ぎ。
受付をしてからすぐに夕食の準備へ。
屋外にある炊事場は10数名いましたが、ほぼすべて外部から来たボランティアの方々で構成され、町の職員の方は栄養士2名。
この方が交代で炊事場を切り盛りしていました。手の洗浄はもちろん、包丁など調理器具の洗浄、衛生管理を徹底されており、私たちも手袋をして頭にはタオルを巻き、マスクを付け、食材を切り始めました。
後で聞いた話ですが、この栄養士の方々も被災されており、自分の家が心配だと話ながら気丈にふるまっておられました。
夕食は18時から。1100人分の食材を切るというのは想像以上に大変で焦りましたが、地元の料理人の方々が手伝ってくれて約5時間かけて調理し、何とか時間通りに配ることが出来ました。
どうしたらよいか、どんな言葉をかけたらよいか分からないことばかりでしたが「遠くから来てくれて有難う」「美味しかった」という言葉をかけてもらい、少しは役に立てたのかなと感じた1日でした。
2日目はJAの方々と炊き出し。すでに切ってある材料が届いたので一安心。大なべで温めてかき混ぜるだけでもかなり体力を使うので助かりました。
非常時でも「挨拶は元気」に。
3日目以降、この運動公園を日頃利用しているソフトボールメンバーが応援に来てくれて少しづつ炊事場に活気が出てきました。
『おはようございます!』大きな声が聞こえると、下を向きながら並んでいた方がみんな顔を上げました。
食事を配る際、かける言葉が見つからず悩んでいましたが、彼らが教えてくれました。
その後は私達だけでなく、ラーメン店、揚げ物屋さんなどが遠くから来てくれて、一緒に炊き出しをしましたが、皆で挨拶だけは元気にやろうという雰囲気が自然と出来上がりました。
見知らぬ土地での活動で被災された方々とどのように関われるのか不安がありましたが、炊き出しを通じて温かい食事、温かい言葉、温かい気配りがいかに大事かを感じることが出来ました。
被災地での活動で気づいたこと、困ったこと。
トイレ
今回より一層、重要と感じたのはトイレ。
灯りや電源は発電機もあり、意外と早く供給されますが、下水はそうはいきません。
やはり、既設のトイレはすべて使えませんでした。避難所周辺の公衆トイレはすべて詰まって使えない状態。
少し離れた場所のコンビニエンスストアなども流せないためにトイレは使用できませんでした。
避難所には仮設トイレがありましたが、すべて蓄便タイプ。
しかも、トイレットペーパーなどは流せず、トイレ内に設置されたゴミ袋に捨てる形式になっておりました。(蓄便タイプは満量になると、使用できなくなるため、トイレの数に限りがある以上、汲み取りが再開されるまでは致し方ないのかもしれません)
臭い、衛生上の問題も考え、抗菌消臭剤も必要と感じました。
食事
生き延びてこそ必要なもの。最低限あればよい。贅沢はいらない。などいろいろな意見がありますが、常日頃、口にするものが食べられないというのは非常にストレスになると感じました。
数日間、生き延びるために必要な食品は高カロリーですぐに食べられるものであれば問題ないと思われますが、それだけをずっと食べ続けるのは非常に難しいです。
日頃、慣れ親しんだモノを食べることこそ、極限状態から這い上がる体力を回復する手段と感じました。
外部からの弁当等の供給は交通網がマヒした状態では期待できません。実際に我々が炊き出しをしている期間中も、配布が終わった後、食べ物を求め来られる人もいらっしゃいました。
実際に避難所に何名の人がいるのか、正確に行政が把握するのはかなり時間を要します。
全員に行きわたらないケースもあるでしょう。個人は非常食である程度しのぎ、行政、自治体は炊き出し器などで温かいものの供給を考えるのが良いと思いました。個人の準備として、小型コンロも必須と感じました。
共有スペースでの寝泊
公助、つまり行政の助けを待つというのは震災直後では非常に難しいということを再認識しました。
実際、避難所で炊き出しをしていて、話が出来た職員の方々は数名でした。当たり前ですが、町の職員の方々も被災者であり、避難所に来た被災者たちを個別対応できるだけの人員もいませんので致し方ないことです。
基本、1週間は自力で何とかする。自分の身は自分で守るという「自助」の部分が最も重要と言われますが、その通りだと感じました。また、1週間というのは最低限の期間であると感じました。
避難所では我々ボランティア集団が現場判断だけで、あれこれ動いて本当に良いのか。という葛藤ばかりでした。
リーダーシップを取り、出来るだけ正確な指示が現場に行きわたる仕組みをいち早く作ることが重要と感じました。
誰が何をやる、どうすべきか考え、伝える役割は共助となる地域のコミュニティと行政の連携が不可欠と感じました。
これらを含め、避難所の運営方法については、地域防災訓練においても必要項目であると感じました。
今回の一連の活動により、自分が体験したことを少しでも多くに方々に伝え、災害に強い街づくりにつながればと思いました。
災害直後の熊本の現状
災害直後の熊本は、建物や電柱、自動販売機等が倒れたり、道路のコンクリートが破壊されていたりと、痛ましい光景が広がっておりました。現地調査レポートの写真をこちらに掲載致します。