TOHOKU VOICE 記事一覧・プロジェクト紹介

TOHOKU VOICEは、2021年3月から2022年3月にかけて、社員およそ130名が東日本大震災の被災地を訪れて記録した証言集です。ここでは、その一つひとつの証言を、原文に近い形でタイルにしてご紹介します。気になるタイルをクリックすると、証言の続きや取材した社員の情報が開きます。

※ ここでご紹介する証言は、取材当時に語っていただいた個人の発言・ヒアリング内容を尊重し、表現や言い回しはできるだけ原文のまま掲載しています。

民宿むさし 武蔵さん夫妻へのインタビューの様子
#001 防災グッズは生きていなければ使えない 「何もかも備えようなんて思ったら、家をもう一軒建てるようですよ」と笑いながら話されていたのが印象的でした。 続きを読む

普段、災害への備えの重要性を訴え、様々な商品を勉強・提案している立場の人間として、”絶対の安全”を用意しておくことはできない。私達がせめてできるのは”減災”なのだと、改めて身が引き締まりました。

「持ち出し袋だって備えておけば安心だけど、生きてなきゃ使えないですからねぇ。」武蔵さんは悲しそうにそう言葉を続けました。いざという時のために備えている持ち出しセットも、持ち出せずに逃げる場合もある。とにかく生きていなきゃ使えない。まずは「逃げる=生きる」ということが最優先。そしてもし持ち出せなかったとしても絶対に取りに戻ってはいけない。大事なのは物でなくて、命なのだ。

この記事を書いた人:40代 女性 N・F

藤間さんの証言に関連する現地写真
#002 何を備蓄したら良いか、ではなく、どうしたら命を守れるか 石巻みらいサポートの学習プログラムで非常食に対するお話を聞いたのが印象的だった。 続きを読む

(以下藤間さん談)非常食は助かってから必要となるもの。被災者に話を聞くと、当時は興奮でそれほどお腹はすかなかったという声もあるくらいです。『ローリングストックとかテレビで言ってるけど、1日3食計算?え、この人達、あの異常な被災状況の中、1日3食きっちりお腹いっぱい食べる気でいるの?昼間は人を必死に探して、夜はヘトヘト。食べようとは思わなかったよ。』というのがリアルな現地の声です。だから私たちは『非常食を買ったからには、ちゃんと生き抜いて食べましょうね!』って言ってます。

何を備蓄したら良いか、ではなく、どうしたら命を守れるか。なのだと、改めて思う。

この記事を書いた人:40代 男性 M・K

門脇小学校震災遺構の様子
#003 時間の経過で景色も人の気持ちも変わる Q:震災遺構を忘れたいので壊してほしいという声と残したいという声があると聞く。その辺りはどうお考えですか?

門脇小学校に関しては、5年前アンケートを取った結果、取り壊してほしいという人がたくさんいた。
続きを読む

それから3年が経過して改めてアンケートを取ると結果数字は変わっていた。ある人は、『もう景角がすべて変わってしまって、自分の中の記憶の中と一致するものは門脇小しかない。だから残してほしいと思うようになった。』と言っていた。時間の経過と共に人の気持ちは変わる。行政が10年と言ったのでそれに向かって皆が走りましたが、10年で本当にすべて決着しなくてはいけなかったのでしょうか・・・人々の葛藤に寄り添う、期限を決めない復興事業もないものなのでしょうか。

この記事を書いた人:40代 男性 M・K

この証言は、まだ人物別インタビュー集・テーマ別引用集には収録されていません。

石巻市内での取材の様子
#004 逃げられない理由 津波が来るかもしれないと思っても、実際にその場で逃げると決断することは簡単ではないんです。逃げられない理由は人それぞれ違います。 続きを読む

例えば東日本大震災発災の14:46分は、ちょうど小学生が帰宅してくる時間でした。この辺りは両親が共働きで祖父母の家に帰る子供たちも多い。「孫が帰ってくるかもしれない」時間に、孫の帰宅を待たずに家を空けて逃げることはできない高齢者も多かった。実際にその時その場に居ないと、逃げられない理由はわからないのです。

だから語り部などを活用して、いろいろな声を聞くことが大切です。聞くことで被災を疑似体験できるのです。話を聞いて、被災の疑似体験を重ねて、その人の本番に活かしてほしい。そのために語り部を続けています。

この記事を書いた人:40代 女性 N・F

この証言は、まだ人物別インタビュー集・テーマ別引用集には収録されていません。

山内宏泰館長の証言に関連する現地写真
#005 大丈夫だった経験が重なり生んだ慣れ 東日本大震災は、未曽有の震災、1000年に一度の津波、と言われていますけど、決して未曾有でも1000年に一度の津波でもないんです。 続きを読む

この地域は過去に40年に一度、津波が襲来しているんです。その都度大きな被害があった。過去の災害から充分に予測ができた災害なんです。だから津波襲来地に石碑を立てたりして注意を喚起したりしてきたんです。でも、時代の変化やチリ地震による津波経験が人々に慣れを生んでしまった。今回の震災もハザードマップで安全とされていた地域の被害が多いんですよ。「大丈夫」と思ってた人が逃げ遅れた。この震災は人的災害ですよ。災害に備えるって、物資を備えるだけじゃないですよね。逃げるためには脚力が必要で、体力がなくちゃ逃げられないんです。だから日頃から体力もつけておかないと。

この記事を書いた人:40代 女性 N・N

気仙沼市内の民宿の様子
#006 助け合いの再出発 1階部分は天井まで浸水しているから、再出発するには建て直した方が良いんじゃないかと思っていたのですが、義母が物を大切にする性格だったので「まだ使えるので、わざわざ壊さなくてもいいんじゃないの?」と言い、結局壊さずに修復させて民宿の再開を目指すことになりました。 続きを読む

そこから学生中心のボランティアの人たちが来てくれるようになり、1階部分の泥や使えなくなってしまった家財の取り除きや処分をしてくれて、今インタビューを受けている部屋(食事処)も元々は畳の部屋だったのですが、すべて床に張り替えてくれたんです。もちろん専門の人が施工したわけではないのであちこち軋みなどはあるのですが、きれいに直してくれて。そして、復興工事が始まるにつれて、気仙沼に仮設住宅の工事などで職人さんたちなどが来たのですが、彼らの泊まる場所が無かったため、まだ民宿は運営を再開できる状態の前でしたが、宿泊させてあげました。そしたら職人さんたちが宿泊のお礼にと、壁紙や家具の修理をしてくれて。職人さんがそれぞれ現場で余った材料を使用して無償で作業をしてくださり、その作業も日中の作業が終わった後の夜に行ってくれました。家具でいうと、この部屋で使用しているテーブルも元々は座卓だったのですが、脚を補強し、高さも合わせてテーブルに作り替えてくださったんです。他にも仮設現場で使用が終わった冷蔵庫や洗濯機などの家電製品を寄付してくれて、そんな皆さんのお力があり、3月に被災してから5か月後の8月末に営業を再開させることができました。

この記事を書いた人:30代 男性 M・H

この証言は、まだ人物別インタビュー集・テーマ別引用集には収録されていません。

小野寺さんの証言に関連する現地写真
#007 想定外への準備を 30年位前に宮城沖地震があり、その規模の地震が10年以内に99%来ると言われていて、気仙沼市の各会社や学校関係など多くのところで一生懸命避難訓練をしていたそうです。 続きを読む

日頃からいつ起こるかわからない災害に備えて、訓練や話し合いなどして対策を講じていた事に対して気仙沼市全体でとても高い防災意識があったと感じました。

その結果、過去にあった事例を反映して対策をしたおかげで助かった命が多くあると思います。

一方で1000年に一度という災害に見舞われて想定外の事が起きたのもまた事実です。

小野寺さんは「天災を防ぐことはできない。」とおっしゃっていました。

普段から想定外の事が起きることを考えながら準備をし、実際に起きた時、迅速に行動できるように備えていかなければならないと感じた。そうした行動が自分の命を守り、また他の命を守って行けると思いました。

この記事を書いた人:20代 男性 M・M

リアス・アーク美術館の展示の様子
#008 被災者とはだれか 現実と向き合う、また明日来るかもしれないものとして展示をし、被災をした我々達がみた被災地を色々な方に伝えたいとおっしゃっていて津波の記録を伝えていかなければという強い気持ちが伝わりました。 続きを読む

岡野さんは「被災者とは一体だれか」ともおっしゃっていました。実際に津波などの震災の被害にあった人、遠くの家族が被災地にいた人、震災の出来事を話で聞いた人、テレビで津波のニュースを見た海外の人、被災者と一括りに出来ませんと言っていました。自分は被災者ではないと他人ごとにならずに、自分自身の事と捉えて行動し備えて行くことが大事だと感じました。

この記事を書いた人:20代 女性 S・I

この証言は、まだ人物別インタビュー集・テーマ別引用集には収録されていません。

リアス・アーク美術館の展示の様子
#009 生死を分ける重要な備え 当館は派手な装飾などをしていないとおっしゃっていました。 続きを読む

現実と向き合わなければならない生々しいものだと考え、そしてまたいつか同じ目にあうのだという考えから、危機感をもって伝えなければならないということで、一つ一つ写真を生の状態で展示し、一つ一つの写真にテキストをつけて展示をしていると、説明していただきました。

写真や被災物に添えてあるテキストには被災地で何が起きていたのか、どのような気持ちだったのが、突然日常を奪われる恐怖や悲しみを身近で感じ、またこれからも忘れてはいけないものだと思いました。

津波が襲来するとなれば、とにかく避難するしかない。避難しなければ助からない、一刻も早く、海から離れた高い場所に避難する。とっさの判断では選択を誤る恐れがあるため、平常時から避難経路と避難場所は頭に入れておいてほしい。生死を分ける重要な備えである。

被災地の人の思いを無駄にせず、普段から自分に出来る防災意識を高くもっていこうと感じました。

この記事を書いた人:20代 女性 K・T

この証言は、まだ人物別インタビュー集・テーマ別引用集には収録されていません。

民宿の女将さんへの取材の様子
#010 人生を分ける選択 現地の方々は「地震が起きたら高台へ」と、皆共通して語られていました。 続きを読む

それは、あのような体験があったからこそ。震災前は、古くからの言い伝えは有ったにせよ、実際には、高台へ向かった人とそうでなかった人とでは大きく人生が変わったことなど考えさせられました。重要なのは、有事の際は、マニュアルや統制という事も重要ですが、一人一人のとっさの判断が重要という事です。女将さんは、「津波てんでんこだよ」と言っていました。津波が来たら早く逃げろ。決して油断せず逃げろ。という東北に伝わる言葉らしいです。これは津波だけではなく、様々な有事に当てはまる事だと思います。誰かの指示を鵜呑みにするのではなく、自分自身で考え、知識を得て、感性を磨く事が大切だと感じました。

この記事を書いた人:50代 男性 T・Y

この証言は、まだ人物別インタビュー集・テーマ別引用集には収録されていません。

震災遺構大川小学校の校門の様子
#011 命を救うのは判断と行動 「震災遺構大川小学校」に到着してすぐ耳に入ってきたのが、震災後、自然に祭壇となった校門で唱えられていた御経の声でした。10年の歳月が経った今も尚、癒えることのない現状を目の当たりにし、学校に響く声が悲しく感じられました。 続きを読む

どの選択が正しかったのかは、経験していないわたしには到底計り知れないことです。ただ、大川小学校での出来事は、その行動の選択により、救えた命があったことは紛れもない事実であった。命を救うのは「判断と行動」です。時間・手段・情報も、マニュアルも研修も訓練も、いざというときの判断・行動に結びつくものではなければなりません。本当に恐ろしいのは津波ではなく、大事なのものが見えなくなってしまうことです。コロナ禍での視察研修となりましたが、「来てくれてありがとう。」「また来てね。」の笑顔の言葉が心に沁みました。東北の現状を学ぶだけの研修ではなく、優しさにふれることも出来た貴重な体験でした。

この記事を書いた人:40代 男性 T・A

たろう観光ホテルでの視察の様子
#012 自分の命は自分で たろう観光ホテルの中をガイドしてもらい、震災当日にホテルの社長が6階から撮影した映像を撮影した部屋で鑑賞しました。 続きを読む

「津波がきたらまっすぐ逃げるな、近くの高いところに避難しろ」が防災教育だそうです。「過剰な避難は笑って許される、避難の遅れは死につながる」という言葉が心にしみました。田老町には記念碑が各所にあるとのこと。避難道も整備されている。さすが防災の町であると思った。明治から津波被害を受けていることが教訓になり、防災意識がしっかりと引き継がれていると感じました。

この記事を書いた人:40代 男性 H・O

この証言は、まだ人物別インタビュー集・テーマ別引用集には収録されていません。

#013の証言に関連する現地写真
#013 状況にあった判断を 芳賀さんは気仙沼向洋高校が海抜「0メートル」にあり当時生徒・職員合わせて250名程残っていて全く犠牲者が出なかったことはホントに奇跡だとおっしゃっていました。 続きを読む

震災時、先生・生徒たちはパニックでマニュアル通りに行動することができず、近所の避難所である地福寺に避難を開始した。しかし、もっと高い場所へ避難する必要があり、最終的には階上中学校へ避難して津波から逃れることができたそうです。今回この向洋高校で犠牲者が1人も出なかったのは、生徒達が過去の言い伝えではなく現状の状況を即座に判断し行動に移すことができた結果だと思います。震災当時私も同じ高校生でしたがこのような状況の時、パニックを起こさず判断できたかと考えると正直難しかったと思いました。関東でも大きな震災が起きることが予想されるので今回学んだことを教訓に自分自身や家族を守れるとよいと感じました。

この記事を書いた人:20代 男性 A・N

東日本大震災津波復興祈念公園の防潮林の様子
#014 百聞は一見に如かず 東日本大震災時の津波により約7万本あった防潮林の松の木々が1本を残して壊滅してしまったとの事でした。 続きを読む

私の通勤路である神奈川県の国道134号線沿いにも、防砂林としてですが、大磯から藤沢まで松林が続いています。単純に比較はできませんが、台風の日など海風を防いでくれている松の木が根こそぎ流されてしまうと考えると津波の威力は凄まじいものだと思いました。防潮林を再生するにあたり、震災前に地元の方が拾い集めていた松ぼっくりの種子から苗木を育て、寄贈されたものと一緒に植樹されているとの事です。百聞は一見に如かずで、実際に東北の震災遺構を訪れ、自分の目で震災の爪痕を見て、語り部の方々の声を聴けたのは非常に良い体験となりました。

この記事を書いた人:30代 男性 A・K

この証言は、まだ人物別インタビュー集・テーマ別引用集には収録されていません。

旧戸倉小学校の様子
#015 避難先は屋上、それとも・・・一瞬の選択 旧戸倉小学校は津波避難の際は屋上への避難を呼び掛けていたそうです。過去に起きた津波被害からの教訓を基に決められたとの事でしたが、東日本大震災の際に避難した場所は少し離れた裏山への避難でした。 続きを読む

高野会館では屋上へ避難された方々が助かり、建物を離れ避難された方々が被災されたとのお話もお伺いしました。いずれの建物でも恐怖と戦いながら生死を分ける究極の選択に迫られた状況であったことを窺い知ることができました。

この記事を書いた人:30代 男性 K・T

タピック45の被災した建物の様子
#016 タピック45 自分事 タピック45は、東北へ到着して初めて見た被災した建物だったので、衝撃的でとても印象に残っています。 続きを読む

自分の身長よりもはるかに高く、見上げるほどの位置に津波が来たことが建物に記されているのを見たとき、恐怖を覚えました。実際に見る光景とテレビで見た光景とはかけ離れていて、「津波が大きな被害をもたらしている」という認識は十分にありましたが、当時は実際に来た津波の高さまではあまり意識していなかったのだと感じ、どこかで他人事のように考えていたのだと痛感しました。最近では地震が増えてきているので、他人事ではなくなってきていると感じます。

この記事を書いた人:20代 女性 A・K

この証言は、まだ人物別インタビュー集・テーマ別引用集には収録されていません。

山内宏泰館長の証言に関連する現地写真
#017 災害の記憶と防災 館長の山内さんは震災の次の日から状況写真を何万枚も撮影し、現在その十分の一程度を展示しているとのこと、また当時の瓦礫(ガレキ)も展示してあり、美術館では瓦礫とは、呼ばないで『被災物』と呼んでいました。 続きを読む

被災物は被災者にとって大事な物であり行方不明者や自分の家など探す手掛かりになる重要な物です。震災の状況写真も震災当日から日数が経過すると道路整備等で自分の家がどこにあったのもわからなるくらいに現地の状況が変わる為、当時状況写真は非常に重要な情報となったと聞きました。記録し保管をすることは次の災害を防ぐ為に役に立つと思います。

この記事を書いた人:50代 男性 T・S

小野寺さんの証言に関連する現地写真
#018 防災に正解はあるのか 2日目の宿泊場所である海光館へ着き食事の後に当時実際に被災されたご主人様のお話を聞くことが出来ました。 続きを読む

「南三陸町の魅力は豊かな自然、見渡せる海などがその一つ。高い防潮堤は人々を守れるかもしれないが南三陸町の魅力を奪ってしまったら街を守る事が出来ない。自然災害は制御する事は出来ない。防潮堤で自然に対抗し防御するのではなく脅威が迫った時にいかに早く逃げられるか考えてもらいたい。」そんな事を話されていました。自然災害(地震、津波、台風、土砂崩れ等)、その対策も一つではありません。立場が変われば出す答えも変わってくると思います。自分の出す考えが正解ではないのかもしれませんが有事の際、後悔しないよう『人として』色々な角度から考え行動しようと思いました。

この記事を書いた人:40代 男性 M・M

#019の証言に関連する現地写真
#019 東北の人たちの力強さ 明治・昭和に三陸津波を経験している地元の人たちは、普段から地震と津波には高い防災意識があり、訓練をよくしていたそうです。 続きを読む

『とにかく高台へ』『近所とのコミュニティが大切』という言葉を、語り部の方たち全員から聞きました。避難して助かった人たちの中には訓練どおりいつもの避難場所に行ったが、山の崩れ方や石の転がり方の異状を感じ取りさらに高台へ登った人が多くいたそうです。その後、避難した体育館で電気も通らずまだ雪も降る季節の中、ペットボトルのキャップ1杯の水をみんなで回し飲みしながら励まし合い耐えたのです。悲惨な映像や写真、お話しを聞きましたが、こういったときに人との協力で生きていく東北の方々の力強さも同時に感じました。

この記事を書いた人:20代 女性 A・K

山内宏泰館長の証言に関連する現地写真
#020 被災物は人生の記録 「震災をいかに表現するか、地域の未来の為にどう活かしていくか」というテーマで単に記録資料を残すことではなく、それらを正しく伝えていく。 続きを読む

「伝える意思と伝わる表現」を大切に、美術館として蓄積してきたノウハウを駆使し、多様な視点で東日本大震災を表現することに努めたそうです。被災した人を被災者と呼ぶように、被災した物を「被災物」と表現していました。報道など一般にはガレキと表現されていますが、瓦礫とは、瓦片と小石を表し、転じて価値のない物、つまらない物を意味する言葉です。被災者にとって被災物は「価値のない、つまらないもの」ではなく、破壊され、奪われた大切な家であり、家財であり、何よりも大切な人生の記録です。ガレキという表現は適切ではないと強く話されていたのが印象的でした。「反省とは未来を考えること」と捉えているそうです。津波発生を阻止することは不可能ですが、生き方は変えられます。津波を大災害化させないためには、人間が変わるしかない、地域文化を進化させるしかない。災害は、人の大事なものを一瞬で奪っていくのだと、重く感じ取りました。

この記事を書いた人:30代 女性 Y・O

佐藤美香さんの証言に関連する現地写真
#021 恐怖の中でも後悔しない行動ができる強い心 「今こうして語り部さんのお話を聞いているだけであれば、先生の判断の甘さ、上の方達の指導の怠りなのかもしれない、と冷静な考えが生まれるが、その場にいたならば自分ならどうだろうか、冷静な判断が出来ただろうか?」と考えました。 続きを読む

お母さん達がお子さんを見つけた時には、体は半分なくなり、脳みその内臓も見えていたそうです。そんなわが子を抱き寄せ、近くの広場に連れて行ったと聞き、親の強さを感じました。東北に行き、自然災害の中で恐怖を感じたとしても自分も生きることを前提に出来ることを判断して行動していかなければいけないと感じました。防災の知識があったとしてもマニュアル通りにはいかないかもしれない、でも、あの時こうしておけば良かった、と後悔した方は沢山いたと思います。今後何かがあったとして、それが恐怖の中だったとしても、後悔しない行動が出来るように強い心を持っていきたいと思います。

この記事を書いた人:40代 女性 T・K

東日本大震災津波伝承館いわてTSUNAMIメモリアルの様子
#022 東北の人々の「伝えたい」という想い 震災から10年の節目を迎えようとしていた2021年2月28日のTSUNAMIメモリアル。「説明しようか?」と気さくに声を掛けてくれた女性は「混まないうちに来ておこうと思ってさ」と話し出した。 続きを読む

横浜に住む息子さんは10年の節目なのにコロナ禍で帰ってこられないのだそう。「1本松とユースホステルの遺構は、2つで1セットで、ある意味「映える」んだよね。」随分ドライだなと思っていると、すぐ横に見える気仙中学校の遺構は、「遺構にしないでさっさと壊して欲しい。見るのも辛い」との事。「ママともが何人も亡くなって、3月になると胸がザワザワして落ち着かないの」警備員さんだったり、学校の先生だったり、ウォーキング途中の男性だったり、視察中、色々な方から「説明しましょうか?」と声を掛けられた。説明を聞く事が「疑似体験」となり、聞いた人が地元に戻って伝えてくれたら良い。疑似体験した事が、いざというときの行動に生かされれば良い。そんな、東北の人々の「伝えたい」という想いをとても強く感じました。

この記事を書いた人:60代 女性 K・M

この証言は、まだ人物別インタビュー集・テーマ別引用集には収録されていません。

佐藤美香さんの証言に関連する現地写真
#023 未来の子供達の安全のために 今回の視察で特に印象に残ったのは、日和幼稚園のご遺族であり語り部の佐藤美香さんのお話でした。 続きを読む

地震発生時、幼稚園には沢山の園児がいましたが、園は園児を各自宅に帰すと判断したため、愛梨ちゃんを含む園児5人が乗ったバスは津波に巻き込まれ、その後、近隣で発生した火災に巻き込まれて亡くなってしまいました。慰霊碑には、愛する我が子の名を散りばめた詩が刻まれており、その最後は「あなたの笑顔にまた会いたい」と結ばれています。朝、元気に笑顔で行ってきますと言って家を出て行った姿が忘れられない…と佐藤さんは話してくれました。園児5人が亡くなったのは震災のせいではなく、園側の間違った判断(人災)であり、5人の命が喪われてしまった事は、子を持つ親として、聞いていて本当に悔しく悲しく涙が止まらなかったです。佐藤さんが、愛娘の愛梨ちゃんを亡くし辛い中、それでもこの様な悲劇が二度と起らないように講演や語り部活動をして、子供達の安全を一番に考えて行動されている姿に感銘を受けました。

この記事を書いた人:40代 男性 Y・O

佐藤美香さんの証言に関連する現地写真
#024 子供たちは大人の判断でしか行動できない 佐藤美香さんは当時6歳の長女愛梨さんを、津波に幼稚園バスごと巻き込まれ亡くされた。 続きを読む

愛梨さんは地震発生時には津波被害に遭わなかった高台の幼稚園に居たが、送迎のため幼稚園バスに乗せられ低地へと連れて行かれ被害に遭った。「子供たちは大人の判断でしか行動できないんですよね」「大人の言うことをしっかり聞いて行動したばかりに私たちの子供たちは亡くなってしまって」「いつか私が娘のところに行ける日が来た時、娘に「ママがんばったね」って言ってもらえるように、伝え続けながら、そしてこういう悲劇が2度と起きないように、語り継いでいきたいと思っています。命の犠牲の上に成り立つ教訓はあってはならないと思っております。私の娘は教訓となる為に生まれてきた訳ではありません。ですが、せめてもの、せめてもの教訓としていかして頂きたいなと思っております。」

この記事を書いた人:30代 男性 T・I

#025の証言に関連する現地写真
#025 励ましあいながら、父親として 沖見屋は震災の影響で全壊してしまいましたが、畠山さん含め、岩井崎地区の方々は近くにある避難場所の神社に避難した為、無事だったそうです。 続きを読む

消防団で活動していた畠山さんは、震災の翌日から消防団の活動をしたそうです。消防団の中には家族を亡くした方もいたとのことでした。そんな状況の中で、消防団の活動内容はとても過酷なもので、瓦礫で塞がれてしまった道をトラックで行けるところまで行き、遺体を担架に乗せて小学校まで運ぶというものでした。約1か月、何人もの人がうつ状態になりながらも、夜にはお互いに励ましあいながら活動を続けたそうです。消防団活動が終わった後は、色々な仕事を夢中でやったそうです。こんな時に無気力になって何もしないのではなく、がむしゃらに仕事をして格好いい父親の姿を家族に見せたかったと話していたのが印象的でした。

この記事を書いた人:20代 女性 N・T

#026の証言に関連する現地写真
#026 日頃からの準備、想定、訓練の必要さ 菊田さんのガイドのもと、旧向洋高校内を見学させていただきました。 続きを読む

震災当時、北校舎は改修工事中の為生徒はおらず、工事関係者のみしかいなかったとのことですが、170名の生徒・教員27名が避難し、職員20名及び工事関係者25名は校舎内に残されたとのことでした。45名が校舎で一晩過ごすこととなったそうですが、その日は小雪が舞う寒さだったそうです。北校舎最上階のカーペット敷だった両端の教室で分かれて過ごし、且つ各教室のカーテンを取り外し、未使用の生徒実習着を使いながら、寒さを凌いだそうです。災害時にはどのような状況になるか分かりません。その場にあるものを活用できるような、臨機応変の対応・行動力が大切だと感じました。そこには日ごろからの準備、想定、訓練が必要だと改めて思いました。

この記事を書いた人:30代 男性 M・I

小野寺さんの証言に関連する現地写真
#027 九死に一生と話し合いの成果 震災当時、大津波警報は8m程度の津波が来ると言われていましたが実際には18m程の津波が到達。小野寺さんは大島内にあった会社本社で、3階屋上に。 続きを読む

海水はどんどん水嵩が増していき自分も流されるのかと考えていた時に家の柱が流されてきて、その柱に掴まったそうです。津波は3階屋上のフェンスも超え柱に掴まった小野寺さんを沖へと引いていったそうです。救助のヘリが来ないかと空を見上げていた所、知り合いの建築会社の社長が船外機(作業船)で助けにきてくれて九死に一生を得たそうです。小野寺さんのお宅では、防災無線が入ったら海から50歩の自宅・旅館へ戻るのではなく、無線が入ったタイミングでどう行動するべきか、山間の学校から帰る子供たちに、自分で考え行動が取れるようたくさん話し合っていたそうです。その甲斐もあり小野寺さんは、震災で家や旅館・船会社失いましたが大切な家族を守ることができました。

この記事を書いた人:40代 女性 R・H

語り部バスの様子
#028 未来を救う、語り部バス 今回参加させていただいた語り部バスは宿泊先でもあるホテル観洋で2011年より運行されており、震災を風化させないためにスタッフの方が町をバスで案内されています。 続きを読む

ガイドをしてくださったのはホテル観洋に務めて半世紀経つと言う伊藤さんでした。ホテルを出発すると伊藤さんはまず発災当時の日本・世界中からのたくさんの支援についてお礼を述べられていました。伊藤さん自身の考えとして印象深く残っている言葉は、住んでいる土地にはどんなリスクがあるのか、万が一の時はどこに逃げるのかそこがだめなら更にどこに逃げるのか自分の足で探してほしい。自分たちと同じ思いをしてほしくない。自分のいのちは自分で守る。という言葉でした。とてもシンプルで本当にその通りだと感じました。語り部バスという活動は国や世代を超えて地域の歴史や文化を未来へ伝え、多くの人の未来を救う一つ方法だと思いました。

この記事を書いた人:30代 女性 H・D

震災前後の写真を見せながら当時の状況を説明する武蔵さん夫妻
#029 10年経ってもサイレンが鳴ると涙が 「民宿むさし」のご夫婦が、震災前と震災後の同一場所の写真を見せながら当時の事を色々と語ってくださいました。 続きを読む

様々なシーンの説明を聞いた中でも、特に奥様が言った一言胸を打ちました。「震災から10年たった今でも、サイレンが鳴ると涙が自然と出て、心臓がバクバクしてしまい、おかしな行動をとってしまう。」と。今もなお、目の前で家族・知人が引き波で流されていく、それを多くの人たちが何もできず見届けていたことがトラウマになっているということです。建物や道路が復興されても、心は簡単には追いつかないのだと改めて思いました。

この記事を書いた人:50代 男性 M・K

九州滞在中に地震を経験した武蔵さん夫妻
#030 被災経験のない人との温度差 「九州に嫁いだ娘のところへ遊びに行く機会があって、その時に地震が起きたんです。東日本大震災の経験から、まっさきに外に出る導線上にあるドアを開けて、周りにいた人たちを避難させようと促しました。 続きを読む

でも、みんなポカーンとした様子で…。あまりにも自分(奥さん)だけが慌てた様子だったので、何だか逆に恥ずかしくなってしまいました。」被災者と、震災を経験していない人間との温度差がよくわかるお話でした。

この記事を書いた人:40代 男性 Y・O

中井さんの証言に関連する現地写真
#031 ものと命とどちらが大事か 津波は地震発生から1時間くらいでここに到達しました。 続きを読む

このあたりの避難所は小学校でしたが、みんな車で向かったので大渋滞でした。長男も車で逃げていて、命はたすかったけれども、車は水没したし一歩間違えれば流されてしまっていたというタイミングでした。渋滞しているところに津波が襲って、たくさんの方がここで流されました。長男も渋滞にはまっていたんだけれど、車を乗り捨てて民家に上って助かったということでした。そこで民家がなければ長男も死んでいたかもしれません。だから避難時は車は使ってはいけない。車社会なのでみんな車使いますし流されたらもったいないと思うんでしょうけど、それが命取り。ものと命とどっちが大事ですかって話です。

この記事を書いた人:30代 女性 A・N

ホテル観洋の様子
#032 拠点となったホテル観洋 「震災直後に停電、断水となりましたが、皆様に食事を提供し、厨房の食材から一週間分の献立を考え、翌日から600名以上の食の提供を開始しました。 続きを読む

1ヶ月程度で電気が通り、断水は続いていましたが、地元の方々のために出来ることはやろうと、限られた食材や食器で、お食事処を再開しました。温かい食事の提供に多くの感謝の言葉を頂きました。震災から56日目に医療、インフラ工事関係者含め総勢1,000名の受け入れも開始しました、特に工事関係者の拠点となったことで、復興が進み改めて被災地の最前線に受け入れ拠点があることの重要性を感じました。また地元の方に少しでも気持ちを楽にしてもらうため大浴場の無料開放を7年間続けました。元々ホテル観洋は創業者が1960年のチリ津波地震の被災体験から、次に来る大津波から皆の命を守るため、利便性を捨て、岩盤の固い高台に建てられました。東日本大震災でその役目を果たしと思います。ホテル観洋が南三陸町のみな様の支えになれればと思います。」

この記事を書いた人:40代 男性 M・I

#033の証言に関連する現地写真
#033 あまりに身近な津波 一番印象に残ったのは、震災当時のおかみさんのお姑さん(当時90歳)のお話です。 続きを読む

お姑さんは、地震があった後も、庭石に腰かけて海を見ていたそうです。「もう少ししたら、波が引いてって津波が来るから一緒に見よう」と、おかみさんを津波鑑賞に誘ったそうなのです。お姑さんは昔、津波が来る前の引き波のタイミングで、普段海の底になっている場所が出てきて、そこにウニやらアワビやらを拾いに行っていたそうなのです。だから、一緒に見よう、あなたも見ておきなさい、という何気ない感覚でいるのです。幸い、寄せてきた津波を見てお姑さんも少し高いところへ避難して難を逃れたという事でしたが、この話を聞いて、海沿いに暮らす人々にとってあまりに津波は身近なものになってしまっているのだと知りました

この記事を書いた人:30代 女性 A・K

#034の証言に関連する現地写真
#034 生活の中での心がけ いろんな人たちが協力していったそれぞれの努力の中で被災地での生活が成り立っていて、そうした生活の中で心がけていたことがあったそうです。 続きを読む

それは、「自分たちでやる」「決定事項はみんなの了解」「仲間づくり」「よく考えを実行した人には必ず賞賛」「支援物資の配布は細心の注意」「支援者に感謝」等、まだ他にもあるそうですが、そういった心がけや気配りをしていったことで、被災した方々の中でもやっていくことができたのではないかと思いました。こういったお話を拝聴させていただき、決して他人事にしてはいけないなと感じました。これから起こるかもしれない震災へ向け、しっかりとした対策、準備、家族との打ち合わせ等をしていくことが、大切であると思いました。

この記事を書いた人:10代 女性 K・F

東日本大震災津波伝承館いわてTSUNAMIメモリアルの展示の様子
#035 津波てんでんこ てんでんことは「それぞれに」「各自で」という意味の方言だそうです。三陸海岸には津波が来たら、周りを気にせず、てんでばらばらに、それぞれで逃げなさいという教えがあるとの事で「とにかく命を守る」強い意志を感じました。 続きを読む

東日本大震災では、すぐに逃げない人が4割いたそうです。その理由として「家族を探しに行ったり、迎えに行ったりしたから」などの理由があげられました。確かに大きな地震があった時、「家族は大丈夫だろうか?」逃げるより先に頭によぎります。家族を守ることは当たり前のことだと思うのですが、自宅に戻ったり、迎えに行ったり、その遅れで自分の命を落としては元も子もありません。先ずは自分の命を守り、身の安全を確保してから家族を守るべきだと思いました。きっと、お互いに身を案じているのだから。

この記事を書いた人:40代 女性 S・I

#036の証言に関連する現地写真
#036 共に生きる 共に生きるとは、地域で防災について考える。 続きを読む

訓練をする。でも、大切なのは普段からのコミュニケーションや助け合いの心をもつ事だそうです。

そして未来へあなたの行動が、未来をつくる。生きてこそ、未来がつくれる。生きてこそ、語り継がれる。生きてこそ、これからの防災を考え、知恵を働かせる事ができる。「てんでんこ」からはじめる。

本当に大切な言葉だと、私の心に残りました。

この記事を書いた人:40代 女性 H・H

南三陸町旧防災対策庁舎周辺の様子
#037 目と耳と足で感じる震災復興 周囲の建物を見ると鉄骨が山側に曲がっていたりして津波の威力がいかに凄かったかがよく分かります。 続きを読む

津波がくるときは、引き潮で水深何メートルも引き底が見え次の瞬間津波が一気に戻ってくるそうです。震災後に記憶を風化させないために建物がいくつか残されていますが、つらい思いをした方もおられるのでみんながみんな賛成ではないような複雑な実情もあるそうです。今回、かつての中心市街地を巡るコースを歩きながら過去の写真と現在の状況、南三陸町旧防災対策庁舎の鉄骨、避難階段が曲がってしまっている様子などを直接見ることで、想像を絶する津波の凄さ、想定外の状況変化に対応することの難しさを痛感しました。過去の出来事を学び、未経験が故の油断、「ここまで水が来たことはない」「大雨でこれまで崖崩れが起きたことはない」など、過信をせずに、これから起こるであろう想定外の災害に備え、考えていく事がいかに必要かということが分かった視察でした。

この記事を書いた人:50代 男性 K・M

この証言は、まだ人物別インタビュー集・テーマ別引用集には収録されていません。

#038の証言に関連する現地写真
#038 大津波の教訓 こちらの地方では「てんでんこ」という方言があると伺いました。 続きを読む

それは「津波が来たら、周りを気にせず、てんでんばらばらに、それぞれで逃げなさい」という事です。人々が犠牲になる悲劇を繰り返さない為に生まれた、命を守るための教えです。いざ、そのような事態に遭遇した時に、周りを気にせずに逃げられるか、自分自身を血も涙もない人だと責めてしまわないかいろいろな葛藤が生まれると思いますが、自身の命を守ることが本当に大切だと感じました。生死に関わることは誰にとっても悲しく辛いことですが何が一番大切かを考えさせられる言葉でした。

お話を伺った後、施設の外に出るとキレイな月夜でした。津波により、ここにあった松も全て流され閑散とした街並みになっています。お月様の光が人々に幸せをもたらします様にと願うばかりでした。

この記事を書いた人:40代 女性 E・K

三條すみゑさんの証言に関連する現地写真
#039 予測していなかった まさか大津波が来るとは思いもしなかった。 続きを読む

大川小学校は北上川河口から4km離れていて今迄地震は何度も起きていたが津波は予測していない。三條さんもご家族を津波で亡くされていて、本当につらい経験を語っていただきました。災害で起こりうること、想定外の事も起きるなど考え、判断して行動に移す。それには、日頃の準備、訓練で災害を想定して。そして想定外が起こるものだと考えていくことが大切だと感じました。自分自身や家族そして部員を守れるよう努力いたします。

この記事を書いた人:50代 男性 T・A

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館の様子
#040 命を守るための判断 陸前高田市にある高田松原津波復興祈念公園を視察し、その後、気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館へ行きました。 続きを読む

陸前高田市では、2011年当時の事を思い出しながら街並みや、復興記念会館を視察しましたが、気仙沼市では実際に津波が襲ってきた建物の中に入り津波の恐ろしさを肌で感じました。当日は、語り部の緒方さんに当時の気仙沼向洋高校や近隣住民の方のお話を伺いました。緒方さんの語り部の中で近隣幼稚園の話が自分の心に残っています。その幼稚園では、避難場所が高校の屋上となっていたが現場での判断で少しでも高い場所へ逃げるという選択肢を取り、高台までは、距離があり幼稚園生たちの足では大変と考えられていたそうなのですが、命を守るために先生たちが協力し、高校と同じの避難場所まで避難したそうです。私自身も小学校教員を目指していたことがあり、小学校で防災訓練を行ったことがあります。その時の事を振り返ると、大勢の子供たち相手に訓練通りの事を行う事で精一杯でそれ以上の判断が下せないのではないかと思います。

この記事を書いた人:20代 男性 T・A

この証言は、まだ人物別インタビュー集・テーマ別引用集には収録されていません。

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館の様子
#041 避難場所 気仙沼市では実際に津波の被害にあった建物の中に入り津波の破壊力と言うか、凄さを感じ、心が震えました。 続きを読む

緒方さんの話の中で近隣幼稚園の事が印象に残りました。幼稚園では、避難場所が高校の屋上となっていたが現場での判断で少しでも高い場所へ避難する選択肢を取り園児は無事避難をすることが出来たそうです。現地では、近隣と合同で避難訓練を頻繁に実施しており、高校の先生は避難する幼稚園の人たちの為に屋上のカギを開けてから近く高台にある神社に避難する内容でした。高台までは、距離があり園児たちの足では大変と考えられていたそうなのですが、命を守るために先生達が協力し、高校生と同じ避難場所まで避難したそうです。今考えられるもっとも高い所に逃げることが出来たのも先人の教えを守り、日々訓練を実施していたからだと思いました。

この記事を書いた人:50代 男性 T・U

この証言は、まだ人物別インタビュー集・テーマ別引用集には収録されていません。

三條すみゑさんの証言に関連する現地写真
#042 命を守る最善策 東日本大震災の津波により多くの方が犠牲となった石巻市立大川小学校を訪問しました。 続きを読む

語り部三條様の話に耳を傾けながら歩みを進めていくと、震災当時の写真や当時の状況を知ることができ、徐々に通常では考えられない悲惨な状況だったことを痛感しました。ここ大川小学校では74名もの児童が犠牲となり、亡くなられた児童の保護者の中には、地獄と化した校庭から冷たくなった我が子を泥の中から掘り出し、必死に顔についた土を拭き上げ、声が枯れるまで我が子の名前を叫び抱きしめていたと。未だに行方不明となっている児童が4名、まさに地獄と化した小学校であったのであろうと、今でも胸が張り裂ける思いであります。災害時、命を守る行動が出来ること。これが命を守る最善策だと感じました。大津波警報が発令されたとき、山や高い建物があってもそこに登らないと命が助からない。私も子を持つ親として、私が住む町を知り、多くの知識を取り込んで、家族また仲間を助けられるようこの研修で感じたことを、多くの人たちへ伝えていこうと思います。

この記事を書いた人:30代 男性 S・O

#043 ありふれた日常 私たちは2021年11月17日にホテル観洋の語り部バスを降り南三陸を背に石巻市の震災遺構である旧大川小学校へと歩を進めました。 続きを読む

今回、語り部として私達を案内して下さった三條様も当時の震災で息子様を亡くした方でした。私もいわき市で津波により友人を亡くしたので関係性は違えど多少なりともお気持ちを感じる事が出来たかと思います。実際に、当時大川小学校で何が起き・何故多くの児童が犠牲になったかという理由を三條様から御話しして頂いている際に信じられないような事ばかりを耳にしました。今回の視察では、ありふれた日常があってこその平和な日々であること、ありふれた日常を過ごす為の準備がとても大事な事であると感じました。

この記事を書いた人:30代 男性 J・M

三條すみゑさんの証言に関連する現地写真
#044 今も戦い続ける 私の心に一番残ったのは、大川小学校。 続きを読む

生活感のない街に残された小学校で当時の様子を聞きました。少し珍しいモダンなつくりの小学校は、外壁は剥がれ、剝き出しになった鉄骨はぐにゃりと曲がり、津波の威力の凄まじさを目の当たりにしました。黒板や机が残っていたり震災前の学校生活の様子を写真で拝見し、のどかで楽しい学校だったのだろうと児童の笑い声が飛び交っている様子に思いを馳せては、切なくなりました。揺れが収まってから、皆が校庭に避難する中、6年生は山の方へ逃げました。しかし、先生方は勝手な行動をするなと注意し、校庭に戻しました。それから約50分間。寒空の下、避難した人々は校庭で待機しました。その間、先生方はこれからどうするかを話し合っていましたが、校庭にいた数十名の命が、一時にして津波に飲まれてしまったのです。今回語り部をしてくださった三條さんも、ご家族を津波被害で亡くされており、はじめは語り部なんかできるのだろうか、泣き出してしまいそうだと思っていたそうですが、多くの人の思いを背負い、同じようなことが起こらないように語り伝えていくことにしたと教えてくれました。今も自分の知らないところで、戦い続けている人がいることを知りました。

この記事を書いた人:20代 女性 R・M

民宿沼田屋の女将さんの証言に関連する現地写真
#045 真の防災とは 民宿沼田屋の女将さんにお話を伺いました。震災当時沼田屋さんはご両親が経営されていたそうです。 続きを読む

建物自体は流されてしまったのですが、幸い当日にお客様はおらず、ご両親も震災直後すぐに高台に逃げたとのことで、人命の被害はなかったそうです。

現在陸前高田市では、防災の講習を受けることによって防災マイスターという認定が貰え、女将さんも実際講習を受け認定を貰っているそうです。しかし、このような経験を経て女将さんは、防災は知識も大切であるが、体力も必要だということを仰っていました。

知識や備えはもちろん大切であるが、結局体力がなければ逃げることはできない、もしくは体力のない人から脱落していくという言葉は、震災を近くで経験した人であるからこそ発することのできる力強い言葉でありました。

この記事を書いた人:20代 男性 H・I

民宿沼田屋の女将さんの証言に関連する現地写真
#046 女将さんの思い 民宿沼田屋の女将さんにお話を伺いました。 続きを読む

現在女将さんは、地域の大学生と一緒に体を使った防災イベントを企画されているそうです。防災には体力が必要ということと、避難訓練通りにはならないという経験から、机上で学ぶのではなく、リアルを通して楽しく市民と防災を結びつけるイベントを行いたいと仰っていました。実際の企画では障害物のある訓練イベント等を企画されており、コロナが落ち着いたら早くやりたいと仰っていました。また女将さんは一つ心配があると仰っていました。宿泊に訪れるお客様から町が怖いと言われることがよくあるそうです。その原因として、町に建物があまり建っていないことや、高い建物がないこと、町を見下ろせる環境になっていることが挙げられ、実際にお子さんがいる家庭などは、子どもが大きくなるまでは海辺に近づかない人もいるとのことでした。しかし、町の造りというものはすぐに変えられるものではないので、防災活動を通して、この町は防災意識が高い町ということや助けてくれる町というアピールを発することによって、陸前高田に人が積極的に訪れてくれる町にしたいと仰っていました。

この記事を書いた人:20代 男性 H・I

民宿沼田屋の女将さんの証言に関連する現地写真
#047 震災当時の様子 民宿沼田屋の女将さんにお話を伺いました。 続きを読む

震災の次の日、女将さんが陸前高田へ物資の救援に行く為ホームセンターを訪れると、自衛隊のサンダルを履いた男性がいて、その男性とお話をしたそうです。その男性は震災当日電信柱に捕まっていたところを自衛隊に救助された方でした。その方のお話によると、最初は何人も電信柱に捕まっている方がいて、時間と共に体力のない人から一人また一人と津波に流されていってしまったそうです。その方が言うには、「自分ももう少し遅かったら、力尽きてここにはいない」と仰っていたとのことです。また手の平は、一晩中力強く電信柱に捕まっていたせいで痙攣していたのが印象的だったそうです。

この記事を書いた人:20代 男性 H・I

民宿沼田屋の女将さんの証言に関連する現地写真
#048 本当の復興支援とは 女将さんは、仙台のビルで勤務している最中に震災を経験しました。 続きを読む

その際にいくつか思ったことがあると仰いました。まず一つ目は避難訓練通りにはいかないということです。日頃からそのビルでも避難訓練は行われていたそうですが、いざ逃げようとすると予期しないことの連発だったそうです。非常口に逃げようとしても、土煙で防火シャッターや防火戸が作動し非常口まで辿り着かないことや、荷物や壁が崩れて押し戸が開けられなくなったとのことでした。また土煙でスプリンクラーが作動し、人も荷物もびしょびしょになったと仰っていました。知識だけではダメということや、思い通りには進まないことは経験されているからこその説得力があり、胸に刻んでおかなければならないと思いました。

この記事を書いた人:20代 男性 H・I

南三陸町旧防災対策庁舎の様子
#049 想定外 南三陸町の旧防災対策庁舎は、当時の街の中心部にあり、すぐ南側には役場の本庁舎があったそうです。 続きを読む

発災後、防災対策庁舎2階の危機管理課に町災害対策本部が設置されました。津波襲来まで、防災無線では職員が繰り返し住民へ避難を呼びかけていたそうです。防災無線で避難を呼びかけていた職員の方は、津波に襲われ殉職されています。

「想定外」その一言で表すには余りにも大きな犠牲だったと思います。私たちは、その犠牲で得た教訓を後世に伝える取り組みをしなければならないと感じました。

私たちの業務においても、作業事故、交通事故を起こさない様に日々危険予知を行っていますが、危険予知活動の想定外が起こらないよう、一度立てた対策を別の角度で見直し、常に対策を考えて安全作業を行っていく事が大切であると感じました。

この記事を書いた人:30代 男性 S・K

この証言は、まだ人物別インタビュー集・テーマ別引用集には収録されていません。

人首さんの証言に関連する現地写真
#050 命を守るための判断力 岩手県の三陸沿岸には、「津波のときはてんでんこ」という教えがあります。 続きを読む

それは「津波が来たら、周りを気にせず、てんでばらばらに、それぞれで逃げなさい」ということです。昔から人々は子どもや孫が津波から逃げ遅れることがないように「津波のときはてんでんこ」「命はてんでんこ」と、繰り返し言い聞かせてきました。「命を守るためには何がなんでも逃げろ」「必ず生き残れ」という強い思いが込められています。こういった過去の教訓から生まれた「てんでんこ」の教えには、一度避難したら家族を探しに戻らないということにも繋がるため、日頃からの話し合いが大事になるとのことです。また、人は何かあったときに「自分は大丈夫だろう」というと考えが働くが、災害の時はそれを見極める判断力が必要となる為、判断力を養う為に災害に対する知識をつけること、シュミレーションをすることが大事になるとのことでした。

この記事を書いた人:20代 男性 Y・O

佐々木さんの証言に関連する現地写真
#051 日常に突如襲い来る災害 このホテルは鉄筋コンクリートの頑丈な作りでありましたが、津波は4階まで到達し、1階2階部分がそのまま流され、エレベーターの部分がそのまま後ろに衝突しており津波の威力の凄まじさを実感いたしました。 続きを読む

個人的に強く印象付けられたのは、被害のなかった4階部分は今でも宿泊施設としての姿を保存されている所であり、3階より下の惨状との“落差”をまざまざと見せつけられ、本当に普通に暮らす日常の最中に、突如災害が襲い来るのを実感しました。過去にこの「田老」の地は度々津波災害に襲われており「万里の長城」と例えられる防潮堤や、軽トラが登れるまでに整備された避難道などの対策を取っており、定期的な防災訓練も行っていたそうです。一時海はもう嫌だとなっていたと語り部さんは語りました。それでも馴染んだ暮らし生活の糧、風土は人間として生きる為に切り離せないものであり、「それでも遡上してくる鮭を見てまた頑張ろうという気持ちになった」という言葉に、復興への強さを感じました。

この記事を書いた人:20代 男性 N・N

佐藤美香さんの証言に関連する現地写真
#052 このような悲劇が起こらないように 幼稚園は高台で地震発生時はまだ園児は全員幼稚園にいて、津波の警報が出ている中に幼稚園バスで海の方に園児を乗せて帰宅させようとしたそうです。 続きを読む

途中に普段立ち寄らない、門脇小学校に立ち寄った際に幼稚園教員2名がそこで追いつきましたが、園児を連れ戻すことはなかったそうです。その後小学校から幼稚園に戻る途中に津波と火災に巻き込まれ命を落としました。なぜ連れて戻さなかったのかなど、疑問でしかありませんでした。バスを運転していた運転手は自力で助かり幼稚園に戻ったものの、園児の事を伝えず又、園長はじめ先生たちも園児達の居場所を聞くこともなく、救助活動も行われなかったと聞きました。被災場所で夜中10時頃まで「助けてー助けてー」の声が聞こえていたと近所の方が聞いたみたいです。津波が来てから10時間後に被災場所付近に火災が発生し、園児達は亡くなってしまいました。お話を聞いた後は園児達は天災によって命をなくしたのか、人災によって命をなくしたのかを深く考えさせられました。

この記事を書いた人:20代 男性 Y・S

戸倉小学校・大川小学校に関する語り部バスの様子
#053 危機意識の違いが分けた明暗 ホテル観洋の語り部バスで伺ったお話。震災前、戸倉小学校へ当時着任された校長先生が、避難場所は小学校の屋上へ変更するべきと提案されました。 続きを読む

職員会議で話し合われ、結局1名が反対し意見がまとまりませんでした。その職員は地元出身で代々この地区の津波被害について幼い頃より伝え聞いていたようでした。最終的に避難所は近くの高台へ決定いたしました。まさに決まったその年、東日本大震災が発災し、小学校の児童は高台目指して避難開始、児童及び職員が目にした光景は、自分たちがつい先ほどまで居た校舎の屋上を飲み込む巨大な大津波でした。避難した高台も危険な状況となり、またその上の神社まで登り避難し全員の命が助かったそうです。対して、大川小学校は北上川河口から4キロの川沿いに位置しており、防災マニュアルは、「高台に上がる」と記してあり具体的な避難場所は各学校に委ねられていました。宮城県も石巻市も地域住民も津波がここまで来る認識が無く、この危機意識の違いが命の明暗を分けました。10年経った今でも大川小学校の行方不明者の捜索を、まだ見つからない子供の事を両親は探し続けているそうです。

この記事を書いた人:50代 男性 T・O

#054の証言に関連する現地写真
#054 普通に生活できることの幸せ TSUNAMIメモリアル、に伺いました。 続きを読む

当時の状況などのお話を聞きながら、タピック45、旧ユースホステル、奇跡の1本松をこの目で初めて見ました。テレビを通してしか見てこなかった映像や状況を実際目の当たりにし、ショックが一番に来てしまいました。タピック45やユースホステルで初めて「被害」を感じ、これが自分の住まいで起きた事を想像した時に恐怖を覚えました。夜、民宿沖見屋さんでも当時のお話を聞き、他人が信用出来なかったという話や「津波てんでんこ」の教えを伺い、普通に生活している事がどれだけ幸せな事か身に染みて考えさせられました。

この記事を書いた人:20代 男性 Y・O

#055の証言に関連する現地写真
#055 悲惨な状況下で 視察の宿として利用した民宿沖見屋の御主人のお話の中で、深く考えさせられる事がありました。 続きを読む

御主人は、消防団として震災直後から活動しており、様々な悲惨な状況の中、自分の精神を正常に保つことが出来なかったと話されていました。避難している人の中には、人間として醜く、卑怯な事をしている。と感じてしまい、また、そのように考えてしまう自分が、醜いのか・・・。と話していました。極限の状況下で、私はどうなるのか。。。今も答えは出ていません。

この記事を書いた人:20代 女性 N・T

#056の証言に関連する現地写真
#056 津波、高さ4階までのリアリティ 気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館の入り口は、震災後の建築できれいな外観となっており、その正面はグランドゴルフ場となっていて多くの年配者が楽しんでおりました。 続きを読む

いざ、館内に入り進んでいくと、先程の光景が嘘の様に破壊された宮城県気仙沼向洋高等学校に案内されました。こちらの高校は4階まで津波に浸かり校舎に残った方は屋上へ避難し塔屋に上るために机を足場にしたと伺いました。屋上から津波を想定し見下ろした際、この高さまで辺り一面が飲み込まれているのだとテレビで見ていた状況より遥かに恐怖を感じ圧倒されました。点検時マンションの4階に行った際・外の見下ろせるデパートに行った際は同行している人にも見下ろした津波の高さを伝えたいと思いました。

この記事を書いた人:40代 男性 T・Y

戸倉小学校跡地の様子
#057 今いる場所安全ですか?本当に まず戸倉小学校の跡地を見ました。 続きを読む

震災の日、校長先生は高台への避難を早々に決定し、全児童を高台の神社、そしてその奥まで避難させたことで、難を逃れました。つぎに高台にある戸倉中学校を見させて頂きました。高台にあるこの戸倉中学校にも津波が襲来したと聞いた時は、かなり驚きました。しかもその津波は海とは逆の山側からも一気に流れ込んできた結果、児童1名、教師2名が犠牲となってしまったとのことです。高台に位置している学校に、山側からも津波が押し寄せて来るのは、想定外だったと思います。海に近い戸倉小学校、高台にある戸倉中学校。結果として犠牲者が出たのは高台にある戸倉中学校でした。戸倉小学校は海に近いことで、津波について防災意識が高まった結果、全員が助かったのかもしれません。自分が今いる場所が必ずしも安全ではないと考え、常日頃から防災意識を高く持ち、考えて行動していくことが大切だと改めて思いました。

この記事を書いた人:30代 男性 D・M

戸倉小学校の様子
#058 危機意識の高さが分けた命運 戸倉小学校は海から約200m、川から約250mの位置にある学校の為、津波の被害が予想されました。 続きを読む

校長先生はもし津波が起きた場合、「屋上」に避難することを考えていたようですが、地元の教えを受け継ぐ教職員からは「高台」に逃げることが最善だと声がありました。そして、震災があったあの日、「高台」に全児童を避難させ、全員無事だったそうです。日頃から行っていた避難訓練や避難マニュアルの見直しなど、当時の校長先生の危機意識の高さと1960年のチリ地震津波を経験した教職員の判断が結果として多くの人の命を救うことになりました。

大川小学校は全校児童108名中74名の児童が死亡あるいは行方不明となり、教職員も10名が亡くなりました。学校の管理下で、これほどまでに大きな被害があった大川小学校とは対照的な結果に、日頃の危機意識の高さが命運を分けたのかなという印象でした。

この記事を書いた人:20代 女性 S・A

高野会館の様子
#059 日々の避難訓練の大切さ 震災発生当時、高野会館では地元の老人クラブの集まりがあり、ちょうど終わろうとしていたタイミングで地震が襲ってきたそうです。 続きを読む

パニックになるお年寄りの皆さんを現地にいたスタッフの方々が的確に避難誘導を行ったことにより300名以上の人が助かったとの事です。地震発生後にお年寄りの方々は自宅に戻ろうとしていたそうですが、スタッフの方が階段の前に仁王立ちしてここに残るように強く説得して最上階の4階まで避難を行ったとの事でした。結果この対応が功を奏して約330名の人が津波の被害を免れました。被災前からこの高野会館では日々の防災に対する意識が高く、防災備蓄を各階に分散して保管していたそうです。日々の避難訓練の賜物や防災に対して真剣に取り組んできたことにより、約330名の人命が救われた結果へと実を結んだのかなと感じました。

この記事を書いた人:20代 男性 M・I

語り部バスでの取材の様子
#060 自分の命は自分で守る お話を聞く中でやはり大事なことは、「自分の命は自分で守る」「政府が決めたこと、市の指定避難場所は必ずしも安全ではない為、自己判断で避難が必要」ということでした。 続きを読む

私の今住んでいる場所は近くに川も流れていて、海からも近いので地震があった際は大丈夫だろうではなく、すぐに避難できるように心がけたいと思いました。

この記事を書いた人:20代 男性 Y・E

ホテル観洋 語り部バスの様子
#061 家族との安否確認の重要性 「私達と同じ思いをしないためにも、家族とはしっかり津波の時の待ち合わせ、特に安否確認について頭においていてほしい」と。 続きを読む

伊藤さんは東日本大震災当時、たまたま息子さんには会えたものの、奥さんには会えず、安否が確認できなかったそうです。そのため、仕事が終わると一睡もせずに奥様へ電話をしていたそうです。しかし、奥さんが電話に出ることはなく、そもそも電話も全くつながらなかったそうです。

震災から一週間、最後のお客様を送り出した後にダメもとでと電話を掛けたところ、ようやく奥さんにつながり、ホテルのスタッフの前で大粒の涙を流しながら泣いてしまったとお話していただきました。

この記事を書いた人:20代 男性 K・Y

#062の証言に関連する現地写真
#062 津波の恐ろしさ 今ここ気仙沼の海はとても穏やかです。 続きを読む

写真や映像で見る津波の様子などを想像することができないくらい、気持ちのいい海でした。ここで採れる海産物など大自然の恵みは、地元の人たちの生活に深く溶け込み、大きな生きる糧を与えてくれています。しかしあの大災害をもたらしたのもこの海からだったということを考えると、牙をむいた時の自然の恐ろしさは、人智を遥かに超えるものがあるんだと感じます。恐ろしい津波は、くるぶしくらいの高さでも人間を簡単に押し流すことが出来るくらい威力があるそうです。液体というより、板などいろいろなものを含んでいるので、いとも簡単に軽く足もとをすくわれ、50mほど流されて木にしがみ付き、一命をとりとめたというお話しも聞きました。

この記事を書いた人:40代 男性 H・T

#063の証言に関連する現地写真
#063 ここまで津波は来ない 東日本大震災の津波で大川小学校では全校108名中74名の児童が犠牲となりました。 続きを読む

震災当日、生徒たちは近くにある裏山ではなく校庭に避難、海から大川小学校までの距離が3.7㎞ありここまで津波は来ないと思っていたようです。親御さんの引取りが来るまで校庭で待機していました。しかし、地震発生から51分後に8.6mの津波が大川小学校を襲ったのです。なぜ避難しなかったのか等疑問もありますが当時の先生方にも考えがあったのだと思われます。実際、校庭にいた教職員も11人中10人の方が亡くなっています。救えた命があったこと、それなのに救えなかったこと、ご遺族の無念さが伝わってきました。

この記事を書いた人:50代 男性 H・T

#064の証言に関連する現地写真
#064 災害への備え 民宿旅館沖見屋は、気仙沼市岩井崎のすぐそばにあり、震災によって全壊したが、同じ場所で2013年に再建された。 続きを読む

この民宿がある気仙沼市岩井崎地区も地震が発生した約40分後に約6mの津波に襲われ、約90%の住居が津波によって流されました。民宿からすぐ近くの琴平神社が避難場所になっており、ここは地盤が固く、高台となっているため、幸いにもこの岩井崎地区からの震災による犠牲者はいませんでした。ただ隣の集落は引き波によって避難所ごと津波によって流され、広い範囲で多くの犠牲者がでました。避難所生活で最初に困ったことは電気が遮断されている中、灯りがなく大変でした。ソーラーのライトを集めて使用し生活しました。水も流れないので、トイレ袋も溜まり、臭いや片付けも大変で、トイレットペーパーも全然足りなかったです。個人でもソーラーのライトとトイレ袋・トイレットペーパーは必需品。

この記事を書いた人:40代 男性 F・S

ニッタン株式会社東北支社の様子
#065 あらゆる想定をした備えと訓練の大切さ ニッタン株式会社 東北支社様にて震災当時のお話を伺いました。 続きを読む

当時は地震情報が足りず、社員安否確認に専念。電気ガス水道も止まり携帯電話の充電やガソリン供給に殺到した。電気が止まった事が一番の影響であった。電気は市内中心部から郊外に向けて1週間程度で通常営業となったが、復旧作業等の移動(外勤)については、立ち入り禁止や冠水により通行制限は残るが約1ヶ月程度で体制は通常に戻りました。仙台市以外で津波被害が無かった地域の復旧は進んでいたが、海岸部は年単位での復旧となりました。とおっしゃっていました。幸いにも出先で社員の方々が、無事であったこと、怪我無く帰社されたことがなにより良かったと思います。我々も、いつ同じような状況になるか、その時、安否確認はどのようにするのか、安全に戻るためにはどうすれば良いかその時の環境や出先の状況により変わってくると思います。あらゆる想定をした備えと訓練が大切で有ると感じました。

この記事を書いた人:50代 男性 K・K

この証言は、まだ人物別インタビュー集・テーマ別引用集には収録されていません。

#066の証言に関連する現地写真
#066 教えを守ることの難しさ 岩手県の三陸沿岸にある教えで「津波てんでんこ」というものがあります。 続きを読む

この教えは訪れる先々で聞かれました。「てんでんこ」とは「各自で、各々で」という意味の方言で「津波が来たら周りを気にせずてんでんばらばらに、それぞれ逃げなさい」という意味だそうです。この教えを実行するにあたり大事なことは、1・避難場所を確認しておく2・避難手段を決めておく3・家族を信じて逃げるということだそうです。三陸の方々にこの教えは90%近く浸透しているそうなのですが、東日本大震災当時の映像を見せていただいた際、地震発生後、自宅に車で帰る途中と思われる車が渋滞し、横から津波が押し寄せ車を吞み込んでいきました。これだけ教えが浸透している地域でも大事な家族の元に戻ってしまうということは、実際に震災に直面した時、教えを守ることの難しさを表していると思います。

この記事を書いた人:20代 男性 M・W

#067の証言に関連する現地写真
#067 大丈夫と思った時ほど危ない 避難指定場所だった体育館の話を聞きました。 続きを読む

内部構造が2階3階とあり心配の声も出ていたそうだが市は避難場所に指定していたそうです。そこに80人ほどの方が避難しましたが、天井まで水が来て、天井の鉄骨につかまった3人の人だけが助かり、目の前で知っている人が流されていき、近くの消防署でも屋上の鉄塔につかまり5人の方が助かったが、その体育館から沢山の悲鳴を聞き、翌朝には声がしなくなったという辛い話をされていました。防潮堤、防波堤、避難所、ハザードマップ・・・それらはあくまでも目安で、それがあるから安心というわけは決してなく、大丈夫と思った時ほど危ないとお話しされていました。

この記事を書いた人:40代 女性 S・N

#068の証言に関連する現地写真
#068 津波の脅威 向洋高校には被災時、校舎内に生徒約170人、職員約50人いました。 続きを読む

そんな人数がいたにもかかわらず、迅速な避難のおかげで犠牲者は0人だったそうです。地域特有の防災意識の高さ、そして日頃の避難訓練の成果だと思いました。各教室津波の被害が激しく、特に説明を受けて印象的だったのは、3階に一本の松の木が流れ着いた話です。約200メートル先の防潮堤のさらに奥にあった松林の一本が向洋高校の3階(高さ約8メートル)まで打ちあがってきました。木が立っていたのが砂地であったということで、波に流されやすくなっていたそうです。それにしても大きな松の木をこの高さまで打ち上げる津波の力は恐ろしいなと感じました。

この記事を書いた人:20代 男性 T・U

芳賀さんの証言に関連する現地写真
#069 日頃の備えと過去の教訓 芳賀さんは、気仙沼向洋高校の元教員で退職されるまで17年間教員として同校に勤められました。 続きを読む

芳賀さんは、気仙沼向洋高校の元教員で退職されるまで17年間教員として同校に勤められました。在職時は生徒指導部長として災害時にはマニュアルにそって点呼をとり、避難誘導を行う立場だったそうです。語り部をするにあたり、防災士の資格を取得され、付近の震災遺構を見て勉強されたそうです。九死に一生を得たものとして、今回の震災をしっかりと孫たちの世代にも伝えていきたいとの思いで、語り部を行っているそうです。公助は三日間期待できない。自助が大事となってくる。普段から自助に取り組むことが重要となる。と言っておりました。今回の気仙沼向洋高校に津波の犠牲者が出なかった要因として、先生・生徒たちがその時の状況や情報をもとに、即座に行動したことがあげられます。日頃の備えと過去の教訓を生かし、今起きている状況を捉えて次ぎへの行動に移すことが大事だと感じました。

この記事を書いた人:50代 男性 M・I

この証言は、まだ人物別インタビュー集・テーマ別引用集には収録されていません。

TOHOKU VOICEについて:このページは、全社員130名が東日本大震災の被災地を訪れて記録した「TOHOKU VOICE」プロジェクト(全69話)の証言を、原文に近い形で一覧にしたものです。テーマごとに再編集した記事は「TOHOKU VOICE」からご覧いただけます。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


上部へスクロール