南三陸ホテル観洋・語り部バス案内人 伊藤さんインタビュー集

南三陸ホテル観洋に50年近く勤め、震災語り部バスの案内人を務める伊藤さん。東日本大震災の発災直後から現在に至るまで、宿泊施設の運営者として、そして地域の記憶を語り継ぐ語り部として、二つの立場から震災に向き合い続けています。TOHOKU VOICEの取材の中で、伊藤さんは実に9つの証言を残してくださいました。避難判断の分かれ道、大規模な受け入れによる復興拠点化、そして家族との安否確認まで、防災のほぼ全局面をカバーするその証言を、時系列とテーマに沿ってご紹介します。

#015 避難先は屋上、それとも・・・一瞬の選択

旧戸倉小学校・高野会館の避難の様子

旧戸倉小学校では、過去の津波被害の教訓から「屋上への避難」が推奨されていました。しかし東日本大震災の当日、実際には「少し離れた裏山への避難」が選択されました。一方、高野会館では対照的な結果が起こります。屋上へ避難した人々は助かり、建物を離れて避難した人々は被災してしまったのです。同じ「屋上か、それ以外か」という選択が、場所によって正反対の結果を生んだという事実は、避難場所の判断がいかに一瞬の状況判断に左右されるかを物語っています。

この話を取材した人:30代 男性 K・T

#028 未来を救う、語り部バス

語り部バスの様子

伊藤さんが案内する語り部バスは、2011年から運行を続け、震災の風化を防ぐことを目的にホテルを出発点として周辺を巡ります。伊藤さんは「住んでいる土地のリスクを理解し、万が一の時の複数の逃げ場所を自分の足で確認してほしい。自分たちと同じ思いをしないためにも、自分の命は自分で守る必要がある」と語ります。国や世代を超えて地域の歴史や文化を未来へ伝えていくこの活動は、多くの人の未来を救う一つの方法だと考えられています。

この話を取材した人:30代 女性 H・D

#032 拠点となったホテル観洋

震災直後、停電と断水が発生する中、ホテル観洋は厨房に残った食材から一週間分の献立を考え、翌日から600名以上への食事提供を開始しました。約1カ月後に電気が復旧すると、限られた食材と食器で食事処を再開し、温かい食事に多くの感謝の言葉が寄せられたといいます。震災56日目からは、医療関係者やインフラ復旧工事関係者を含む1,000名の受け入れを開始。「工事関係者の拠点となったことで復興が進み、改めて被災地の最前線に受け入れ拠点があることの重要性を感じた」と伊藤さんは振り返ります。地元住民向けの大浴場無料開放も、7年間続けられました。ちなみにこのホテルは、創業者が1960年のチリ地震津波の被災経験から、利便性よりも安全性を優先し、岩盤の固い高台にあえて建てたものだといいます。

この話を取材した人:40代 男性 M・I

#053 危機意識の違いが分けた明暗

戸倉小学校では、震災前に着任した校長が「避難場所を屋上に変更すべき」と提案しましたが、職員会議で1名が反対しました。代々受け継がれてきた津波被害の言い伝えを知る地元出身のその職員の意見により、最終的な避難場所は「近くの高台」に決定されます。震災当日、児童たちは高台へ避難し、自分たちがつい先ほどまでいた校舎の屋上を飲み込む巨大な津波を目撃しました。さらに高台も危険と判断され、神社まで登って避難し、全員の命が助かったといいます。一方、北上川河口から4キロの川沿いに位置する大川小学校では、防災マニュアルに「高台に上がる」と記されながらも、具体的な避難場所は現場の判断に委ねられていました。「宮城県も石巻市も地域住民も、津波がここまで来るという認識がなかった。この危機意識の違いが、命の明暗を分けた」と伊藤さんは語ります。大川小学校では、今も行方不明者の捜索が続いています。

この話を取材した人:50代 男性 T・O

#057 今いる場所安全ですか?本当に

戸倉小学校では、校長先生が震災当日、早い段階で高台への避難を決定し、全児童を高台の神社とその奥まで避難させたことで、児童全員が難を逃れました。一方、高台に位置していた戸倉中学校では、津波が海側だけでなく山側からも流れ込み、児童1名と教師2名が犠牲になってしまいました。海に近い小学校のほうが防災意識が高く全員が生き残り、高台にあった中学校では想定外の被害が生じたというこの対比について、伊藤さんは「自分が今いる場所が必ずしも安全ではないと考え、常日頃から防災意識を高く持ち、考えて行動していくことが大切」と結んでいます。

この話を取材した人:30代 男性 D・M

#058 危機意識の高さが分けた命運

海から約200メートル、川から約250メートルの距離に立地していた戸倉小学校では、当初校長は屋上への避難を検討していましたが、1960年のチリ地震津波の経験を踏まえた地元教職員の提言により、「高台」への避難に方針を変更しました。結果、全児童が安全に避難し、人命の喪失はありませんでした。一方、大川小学校では108名の児童のうち74名が死亡・行方不明となり、教職員10名も亡くなっています。「日頃の危機意識の高さと、当時の校長先生の判断が、結果として多くの人の命を救うことになった」と伊藤さんは振り返ります。過去の災害経験の継承、避難訓練の実施、避難マニュアルの継続的な見直しが、生死を分けた重要な要素だったといえます。

この話を取材した人:20代 女性 S・A

#059 日々の避難訓練の大切さ

震災発生時、高野会館では地元の老人クラブの集まりがちょうど終わろうとしていたタイミングで地震が襲いました。現地スタッフは、パニックになる高齢者を的確に避難誘導。自宅に戻ろうとする方々もいた中、スタッフが階段の前に仁王立ちしてその場に残るよう強く説得し、最上階の4階まで避難させたといいます。この対応により、約330名が津波の被害を免れました。背景には、震災前から高野会館で防災意識が高く、防災備蓄を各階に分散して保管していたことがあったと伊藤さんは説明します。

この話を取材した人:20代 男性 M・I

#060 自分の命は自分で守る

伊藤さんの証言の核には、常に二つのメッセージがあります。ひとつは「自分の命は自分で守る」という防災対応の最も基本的な原則、もうひとつは「政府が決めたことや市の指定避難場所が、必ずしも安全とは限らない。だからこそ自己判断での避難が必要になる」という、行政の指定に依存しきらない主体的な判断の大切さです。取材にあたったスタッフも、自身の住まいが川や海に近いことを踏まえ、「大丈夫だろう」ではなく、すぐに避難できるよう心がけたいと振り返っています。

この話を取材した人:20代 男性 Y・E

#061 家族との安否確認の重要性

伊藤さんは震災当日、息子さんとは偶然会うことができましたが、奥様とはなかなか連絡が取れませんでした。仕事を終えた後も眠らずに電話をかけ続け、震災から約1週間、電話がつながらない状態が続いたといいます。最終的に、宿泊客を見送った後にかけた電話でようやく奥様と連絡がつき、ホテルのスタッフの前で涙を流したそうです。「私たちと同じ思いをしないためにも、家族とはしっかり津波の時の待ち合わせ、特に安否確認について頭に置いていてほしい」。この言葉には、命が助かった後にもなお続く、家族の安否をめぐる長い不安の時間が凝縮されています。

この話を取材した人:20代 男性 K・Y

9話を通じて伝わること

伊藤さんの証言を通して見えてくるのは、「避難場所の選択」「避難訓練の積み重ね」「行政任せにしない自己判断」「そして助かった後も続く家族の安否確認」という、防災のほぼ全局面です。ひとつの災害体験ではなく、9つの異なる場面から語られるからこそ、その教訓には厚みがあります。ぜひ他の証言者のインタビュー集や、TOHOKU VOICEの他の証言もあわせてご覧ください。

インタビューした人:ホテル観洋 伊藤さん

インタビューした人:ホテル観洋 伊藤さん

施設・団体紹介

南三陸ホテル観洋 語り部バス

震災を風化させないため、スタッフが町をバスで案内する「語り部バス」を運行。ホテル出発、大人(中学生以上)500円・子供(小学生以下)250円。

TOHOKU VOICEについて:このインタビュー集は、全社員130名が東日本大震災の被災地を訪れて記録した「TOHOKU VOICE」プロジェクト(全69話)の一部を、証言者ごとに再編集したものです。プロジェクト全体については「TOHOKU VOICE」をご覧ください。スタッフによる被災地視察レポートは「東日本大震災と被災地の記録」でご覧いただけます。

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